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■全菓連 理事長 岡本楢雄
![]() 23 天災は忘れた頃にやってくる 寺田寅彦先生の名前は皆さんよくご存知かと思いますがご存知でない方もおられると思いますので先に紹介させていただきます。 先生は東京帝国大学物理学科を卒業後、 音響学や地球物理学を専攻、 東大助教授となられ、 ドイツに留学、 大正五年に東大教授、 航空研究所や地震研究所の所員を兼務され、 地震学などの領域で活躍された物理学者でありながら一方夏目漱石門下の小宮豊隆・安倍能成らと親交を結び、 俳諧や科学随筆などでも数多くの作品を残されました。 寺田先生は相対性理論で有名なアインシュタインと同世代の物理学者であり、先生の研究は「学問的でない、趣味の物理学」だと揶揄された役にたたない物理学が、現在その評価を高めています。 一九二三年(大正十二年)九月一日の関東大震災の後「天災は忘れた頃にやってくる」と言われ始めました。 この言葉は寺田寅彦先生が発せられた言葉だとされています。 東京がこれほどの大地震に襲われたのは、 一八五五年の安政二年七千人以上が亡くなったとされる安政の大地震から七十年近くたち文字通り「忘れられた頃」だったのでありました。 爾来福井大地震・伊勢湾台風・阪神淡路大震災など何度も日本は痛い目にあい、その都度「天災は忘れた頃にやってくる」の言葉をかみしめているのであります。 姉歯元建築士事件等で今又震災問題が大きくクローズアップされています。 対策は今のうちによく考えておくべきでしょう。
春になれば爛漫と桜の花が咲く。桜が咲くと学校や会社や社会も新しい期が始まる時である。暖かい陽気と共に新しい気分になって、新しいものに取り組もうという気持ちがわいてくる。 もともと、大昔は「お花見」といえば「梅見」のことだったが、今では前述のごとく「桜見」のことだ。 「吉野の花見」の前の年に視察に行った秀吉は、山桜中心の桜群に彩りを加えるため数千本の色鮮やかな枝垂れ桜を植樹された。 一本の桜から始まった吉野の桜の物語は時とともに幽遠な趣を増していった。当初、信仰の目的で植樹された桜は、やがて西行をはじめ多くの歌人に銘歌を詠ませ、先の秀吉の花見、江戸時代には本居宣長という文人も訪れる名所となっていた。 一本の桜が千年の時を経て、新しい世界を作ってきた吉野は、その間幾多の植樹をくり返し、秀吉が持ち込んだ色鮮やかな枝垂れ桜や、他品種との交配を重ね、現在吉野という地名は世界でもっとも桜が美しいところとなった。 現在、その数およそ三万本、全長8粁ほどの谷を「下千本」「中千本」「上千本」と呼ばれる桜が一面を埋め尽くして咲く艶やかさは、この世のものとは思えないほどの美しさである。 桜といえば戦前は日本の国花であり、日本人の象徴でもあった。十八世紀伊勢の国、松坂の木綿商の家に生まれ、読書を好み医学修学のため京都に遊学、28才で松坂に帰り、魚町で医師を開業、その傍ら松坂の人に「源氏物語」などの古典の講議を行ない、34才から35年かけて「古事記伝」44巻を完成し、文学説や国語学の研究、紀行、随筆など数多くの著作を残した先の本居宣長は桜と鈴と歌を好み、今も日本文化史上不滅の存在とされている先生が桜を詠んだ有名な歌 敷島の大和心を人とはば朝日に匂う山桜花 は日本人の心を表したものとして If one asks me What is the soul of I'll say nothing, But point at the will cherry-brossoms Blooming to the sun in the morn. と英訳されて全世界に紹介されたのであった。 それが先の敗戦を知っている私には、桜といえばペリリュー島玉砕の守備隊の最後の暗号電文が「サクラ・サクラ」であったことを思い出す。 |