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全菓連 理事長 岡本楢雄

23 天災は忘れた頃にやってくる

 寺田寅彦先生の名前は皆さんよくご存知かと思いますがご存知でない方もおられると思いますので先に紹介させていただきます。

 先生は東京帝国大学物理学科を卒業後、 音響学や地球物理学を専攻、 東大助教授となられ、 ドイツに留学、 大正五年に東大教授、 航空研究所や地震研究所の所員を兼務され、 地震学などの領域で活躍された物理学者でありながら一方夏目漱石門下の小宮豊隆・安倍能成らと親交を結び、 俳諧や科学随筆などでも数多くの作品を残されました。

 九州熊本の旧制第五高等学校時代に英語や俳句を学ばれた恩師の夏目漱石との交遊は有名であり 「吾輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八ら夏目漱石の小説に出てくる科学者は寅彦先生がモデルであったとされています。

 それだけに寅彦先生の物理学は常に文明とか歴史とかいったものと不可分だったのであります。古事記や日本書紀の「国生みの神話」からヒントを得られて大陸移動説の端緒となる論文を書かれたり、 尺八だとか金平糖など極めて身近なものを物理学的分析されるのもお得意だけに吉村冬彦の名前でも多くの随筆を書かれました。

 寺田先生は相対性理論で有名なアインシュタインと同世代の物理学者であり、先生の研究は「学問的でない、趣味の物理学」だと揶揄された役にたたない物理学が、現在その評価を高めています。

 確かにアインシュタインは偉大な物理学者であるが、寺田先生は彼に匹敵する偉大さをもっているかもしれません。
 また、X線を利用した結晶構造の解析を世界的科学雑誌「ネイチャー」に送付したが直後にイギリスのブラック物理学者親子が同じ研究結果をすでに発表していたので、ノーベル物理学賞はブラック父子に、残念ながら受賞には至らなかったが国内ではこの業績を高く評価して、大正6年(一九一七年)に寺田先生は学士院賞を受賞したのでありました。

 一九二三年(大正十二年)九月一日の関東大震災の後「天災は忘れた頃にやってくる」と言われ始めました。 この言葉は寺田寅彦先生が発せられた言葉だとされています。
 先生の随筆集その他私の読んだなかではそんな言葉は見あたりませんが、 そうした意味のことを書き、 警告を発しられている文章はあります。
 どこかの講演でしゃべられたのか、また、マスコミが意訳したのかわかりませんが名言の一つであります。

 関東大震災はマグニチュード七・九死者行方不明者十四万人余り、 当時の気象台の針が飛んでしまい、 かろうじてこれを記録したのは東京帝国大学の地震学教室の地震計であったといわれています。

 東京がこれほどの大地震に襲われたのは、 一八五五年の安政二年七千人以上が亡くなったとされる安政の大地震から七十年近くたち文字通り「忘れられた頃」だったのでありました。

 爾来福井大地震・伊勢湾台風・阪神淡路大震災など何度も日本は痛い目にあい、その都度「天災は忘れた頃にやってくる」の言葉をかみしめているのであります。 姉歯元建築士事件等で今又震災問題が大きくクローズアップされています。 対策は今のうちによく考えておくべきでしょう。




22
桜に想うわが心」   平成17年4月15日

 春になれば爛漫と桜の花が咲く。桜が咲くと学校や会社や社会も新しい期が始まる時である。暖かい陽気と共に新しい気分になって、新しいものに取り組もうという気持ちがわいてくる。
 日本には「お花見」という風習が昔から継承されてきている。今日では「お花見」といえば満開の桜の下で赤い毛氈を敷いて弁当を広げて日本酒を酌み交わし、余興もまじえて楽しむことだ。

 もともと、大昔は「お花見」といえば「梅見」のことだったが、今では前述のごとく「桜見」のことだ。
 古くは豊臣秀吉が慶長3年(一五九〇)に「醍醐の花見」、4年後に「吉野の花見」を催した。何れも数千人の規模で開催されたというから大きな花見であったようだ。

 「吉野の花見」の前の年に視察に行った秀吉は、山桜中心の桜群に彩りを加えるため数千本の色鮮やかな枝垂れ桜を植樹された。
 秀吉が植樹させた枝垂れ桜以外は皆自生のものかと云えばそうでもない。 平安時代、古来の山岳信仰に神童・仏教などが混じって日本固有の集験道が成立し、その開祖のひとりである役行者が吉野の山中で金剛蔵王権現を感得し、その姿を桜の樹に刻んだことから、桜はこの地で神木となった。
 人々は吉野山に登り、信仰の証しとして桜の苗木を植樹したと言い伝えられている。

 一本の桜から始まった吉野の桜の物語は時とともに幽遠な趣を増していった。当初、信仰の目的で植樹された桜は、やがて西行をはじめ多くの歌人に銘歌を詠ませ、先の秀吉の花見、江戸時代には本居宣長という文人も訪れる名所となっていた。

 一本の桜が千年の時を経て、新しい世界を作ってきた吉野は、その間幾多の植樹をくり返し、秀吉が持ち込んだ色鮮やかな枝垂れ桜や、他品種との交配を重ね、現在吉野という地名は世界でもっとも桜が美しいところとなった。

 現在、その数およそ三万本、全長8粁ほどの谷を「下千本」「中千本」「上千本」と呼ばれる桜が一面を埋め尽くして咲く艶やかさは、この世のものとは思えないほどの美しさである。

 桜といえば戦前は日本の国花であり、日本人の象徴でもあった。十八世紀伊勢の国、松坂の木綿商の家に生まれ、読書を好み医学修学のため京都に遊学、28才で松坂に帰り、魚町で医師を開業、その傍ら松坂の人に「源氏物語」などの古典の講議を行ない、34才から35年かけて「古事記伝」44巻を完成し、文学説や国語学の研究、紀行、随筆など数多くの著作を残した先の本居宣長は桜と鈴と歌を好み、今も日本文化史上不滅の存在とされている先生が桜を詠んだ有名な歌

 敷島の大和心を人とはば朝日に匂う山桜花

は日本人の心を表したものとして

 If one asks me

What is the soul of Japan?

I'll say nothing,

But point at the will cherry-brossoms

Blooming to the sun in the morn.

 と英訳されて全世界に紹介されたのであった。

 それが先の敗戦を知っている私には、桜といえばペリリュー島玉砕の守備隊の最後の暗号電文が「サクラ・サクラ」であったことを思い出す。
 今年は桜の花びらを透かしてイラクのテロ活動と日本の自衛隊の復興支援活動が交互に映り変わりしている印象である。
 年々歳々に咲く花の色は同じでもそれを眺める人間の気持ちによっていろいろ変わるものだということを知った。花の楽しみ花に浮かれる気持ちになれる年が早く訪れてくれ、一年でも長く続いてくれることを念願している。
 これは戦争という人間と人間との戦いが原因で、どうか世界が一つに仲良くなれる日が一日も早く一日も長く続いて欲しいものである。