■全菓連 理事長 岡本楢雄

14.
常に来世紀を見つめて考えよう
大阪の御堂筋・日本の鉄道を顧みて 平成15年11月15日 目次に戻る
私の生まれ育った大阪は、明治、大正時代には東洋一の商工地と呼ば
れ、又、水の都・煙の町として発展してきた。
この大阪の大動脈として大阪駅から南の難波まで約4.4キロの御堂筋を、わずか6m程だった道幅を43.2mに拡げようと大正15年(一九二六年)10月、当時の関一大阪市長の驚くような計画のもと11年の工期がかかって昭和12年(一九三七年)5月に完成した。
用地14万7千平方mという巨大な道路を都市の大改造の主要事業として、大反対を押し切って開いたのである。総工費三千六百万円、電車軌道を設けずに緑樹帯を造り、電線は地下に埋没するという戦前に建設された道路としては全国に比類のないものであった。
当時は国際的な大恐慌関東大震災の後で国からの援助も殆ど無く、街のど真ん中に飛行場でも造る気かと笑われるなか、経済の発展・大阪市の発展のために理想を説き、受益者負担金制度により、沿道の商家の拠出によって開通したのであった。
この建設工事で私の幼稚園の友人の一人が地下鉄建設の深い溝にはまって亡くなった。
非常に鮮烈なできごとで今でもはっきりと刻まれている。このように地下に鉄道が走ると日本で2番目の道路で、現在のようなトンネルマシーンもなく、ドイツから輸入した蒸気ハンマーを打ち込む騒音・振動で、付近の家は傾いたり、壁が崩れたり、地下水が枯れたとさえいわれていた。
開通した御堂筋は、当時、交通量も少なく、馬車が行き交うのんびりした道路だったが一九五八年に建設大臣の直轄管理となって国道の指定を受けてからは、急速な時代の流れによって、交通環境も変化し、一九六〇年代の半ば頃からは高度経済成長期を迎え、空前のマイカーブームも手伝って、この御堂筋も渋滞が目立つようになり、一九七〇年にこの慢性的な渋滞を解消するために南行き一方通行となり現在に至っている。
また、都市改造の一環としてつくられた道路らしく、周辺に建てられているビルも百尺(約30m)制限で高さを一律に百尺に揃えようという制度で、近代的都市の機能美を感じさせるものだった。
こうした関大阪市長の大英断は、80年近くたった今日、あっぱれと称賛されるとともにそのお孫さんである関淳一氏が大阪市の助役であり、このたび磯村市長の跡を受けて大阪市長選に立候補されているのである。
次に日本の鉄道の線路について考えてみると、日本で初めて鉄道が開通したのが明治5年(一八七二年)10月14日、新橋〜横浜間であり、東海道第三宿である神奈川の先にある開港場横浜へは徒歩で半日かかる道のりであったが鉄道はたった53分に縮めたのであり、当時としては高価な運賃であったが、物珍しさも手伝って開業7ヶ月で50万人の乗客を運んだということである。
この時、狭軌と呼ばれる一〇六.七に線路幅を決定したのが、後になって色々な論争を引き起こすことになった。
この狭軌に決まったいきさつは、鉄道建設のために招き入れたイギリス人技師の助言によるものであるらしい。イギリスは国内の鉄道は全部標準軌道(軌道幅一四三.五、通称広軌と呼ばれている)であったが、植民地の鉄道は全部狭軌で建設していた。
未開の植民地に鉄道を建設するには狭軌の方が手軽で建設費も安くすむからだ。日本の政府が狭軌を採用したのは「狭い日本では、狭軌で充分、コストも安くすむ」と大隈重信さんが言ったためだということだ。
しかし、この決定が後々に様々な論争を引き起こすことになったのである。
レール幅は広ければ広いだけ車輪の安定度が増す。
明治に狭軌で鉄道が建設されてから多くの鉄道技師達は「標準軌道(広軌)ならば安全に高速列車を走らすことが出来る」と標準軌道へ改築を主張していた。
しかしながら今までの車輪と共通化ができないことや標準軌道で新しく線路を敷いたりするなら狭軌で良いから少しでも長く線路を延ばす方がよいという意見が多かったようで、標準軌道の鉄道は誕生しなかった。
第二次世界大戦後、東海道本線の輸送力は限界に近付いて来た。
昭和32年(一九五七年)7月当時の国鉄総裁であった十河信二さんが宮沢胤勇運輸大臣に東海道本線を全線復々線にする方法と新たに標準軌道(広軌)の別線を新設する方法の二案を示された。
この要請を受けて、閣議決定を経て設置された日本国有鉄道新線調査会は、昭和33年(一九五八年)7月遂にレールの幅を広くした別線鉄道を建設するよう答申され、広軌の東海道新幹線が誕生することになった。
この10月1日から東海道新幹線品川駅の開業と「のぞみ」の大増発で一時間に最大のぞみ7本、ひかり2本、こだま1本と平均6分間隔で運転されることとなり、全車時速二七〇キロのスピードで「のぞみ」は東京〜大阪間2時間30分で結んでいる。
このように初期の決定が大きく後世に影響してきたのが日本の資本主義経済の実情であった。
私達も百年後、少なくとも22世紀を見据えて、今の不況のことばかりに心をたらわれず、菓子業界発展のために意を用いなければならないと常に思っているところである。皆さまのよりよいご助言を切に期待いたしている。
13.「六本木ヒルズ」オープン 全菓連ビルもその対応に懸命 平成15年9月15日
全菓連共済ビルヂング株式会社は、全国各都道府県菓子工業組合が株主であり、その配当金の一部によって全国菓子工業組合連合会の賦課金を支払っているのが現状である。
従ってビル会社の営業成績に全国四十六都道府県の中小菓子メーカーの眼が注がれている。
皆さんも新聞その他によってご存じの通り、4月23日に全菓連の近く六本木に、六本木ヒルズが完成オープンし、五月の連休には三百万人もの人が集まったということだ。
先ず、そのスケールの大きさ、土地面積11・6ヘクタールに新しい都市を作ろうという発想である。メインの森タワーは54階で恐らく日本一の超大型オフィスビルだ。
それ以外にホテルやシネマコンプレックス、大きなレジデンス楝が二楝に加えて日本庭園まで造園されている。建物と建物のつながりが判りにくく、方角がわからない。建物は最近流行のアメリカ式で、東京駅前の丸ビルと同様独特の個性や伝統をもった設計ではない。
それにしても東京ではベイエリア、汐サイトと超高層ビルがなぜ次から次へと建つのか。
この不況下で資金はどうなっているのか。銀行が貸しているのか。そんな疑問を持たざるおえない。
さて、この六本木ヒルズは、一九八六年に計画されたそうだ。今から20年前のことでようやく日の目をみたことになるのだそうだ。
20年前といえば、中曽根内閣の時代で日本は世界の金融市場の中心になる。オフィスは絶対に東京では不足する。だから新しい市街地開発が必要だということになったらしい。
その後バブルが崩壊して、東京は世界の金融の中心どころか十数年にわたる株価の下落低迷で、今や世界の金融会社は東証の会員をやめるなど次第に撤退していっている。
それに9・11の同時多発テロ以来、アメリカの景気も落ち込み海外のオフィスビルを購入することを控えているようである。
では何故今頃この景気の悪い時にオープンするのかといえば立ち退かした地権者との間に約束、即ち契約があったから建てなくてはならなかったということであるらしい。
大きなレジデンス二楝のうち一楝は地権者のためのものであるそうだ。このほかには、この不況下であるため建築費が安い。
ゼネコンは受注高競争を今でもしており、公共事業に参画できるかどうかのランクを気にして利益がでなくても受注しているのが現状である。
古いビルはインターネットの専用ラインがなく、ただ個人事業主のビルがバブル時代に多く東京に建った。
その時の資金繰りで家賃を計算しているので家賃を下げるわけにはいかない。これらのビルが不良債券化しているのである。
小泉首相は不良債権をゼロにするといっておられるが、実体は全く別の方向に進んでいる。反面前述の通り、新しいビルは安い建築費に支えられているので家賃も割安にできると新しい設備に対応できるようになっている。
そのため古いビルからどんどん新しいビルへ事務所の移動がはじまっているのだ。六本木ヒルズに移った跡の部屋にはまた次の古いビルからという風にどんどん東京都内にも空室が目立ち始めている。
六本木ヒルズの資金は銀行も貸金の回収に懸命で資金調達は、森ビル既存の七つのビルをまとめて証券化して資金を作られたということである。
建物もアメリカ風なら、容赦ない弱肉強食のアメリカ商法が進行しているのが現実である。
そこで、わが全菓連ビルもその余波をうけてきた。古くは骨董通りと云われ、現在はファッションの街となったこの南青山も、青山通りにも空室が目立ちはじめてきた。
在来のテナントが表通り(青山通り)のよりよいビルに、よりよい条件で移転するとの申出を受け、何とか今まで通りに居座って頂くためにこの度、創業以来はじめて家主である全菓連ビル並びに全菓連の事務所を近くの第二和田ビルに開業以来のテナントさんである箱根ランドさんにも一緒に出て行ってもらい、その跡を貸すことにし、又玄関・エレベーターホールも全面改装してビルのレベルを向上させ、何とか今費用がかかっても収入を確保し、配当を堅持させたい一念で事務所移転をしたことをご賢察頂きご理解を賜りたいと思っている。
12. 「信頼される全菓連へ」から「信頼出来る全菓連」をスローガンに
平成15年7月15日
去る5月16日の総会・理事会におきまして再度理事会にご推挙を頂戴し、就任させていただきました。
過去一期二年間は今は亡き古谷前理事長さんの後をうけ「信頼される全菓連へ」をスローガンに「明るい、開かれた全菓連」は先々代鶴木理事長さん、先代の古谷理事長さんの手によって完成されたものと思い、全国の中小菓子製造業者から信頼される全菓連に成長させたいとの思いで、二年間役員の皆さん、事務局の皆さんと一緒になって、所期目的の達成に邁進してまいったつもりでありました。
北は北海道から南は九州ブロック会や青年部の会合にお招きがあれば出来るだけ万難を排して出席させていただきました。
全国各地での様々なお声を拝聴し、全菓連の責任の重さを痛感したことでした。
先づ何処へ行ってもお菓子が売れない。
何とか売れるようにならないものか。異口同音これが私達菓子業界の現下の最大の課題であることに間違いありません。
これらは大きく日本経済がバブルの崩壊を境に、過去のインフレ経済からデフレ経済に移行したのが最もたる原因であろうと思考します。構造不況が10年以上も続く中で消費構造も大きく変化したのでありますが、多くの企業はこの変化について行けず、売上と利益を減少させていったのであります。
わが菓子業界にあっても少子化の進行が需要を阻害している要因の一つに数えられています。
事実、厚生労働省の02年統計によれば、1人の女性が生涯に産む子供の平均数は1.32であり戦後最低だった前年01年の1.33を更新し、誕生した子供の数も一一五万三八六六人と一万六七九六人減少となり一八九九年の統計開始以来の最低となったのであります。
しかしながら一方高齢化も進み、出生数から死亡数を引いた自然増加数は17万一五九五人で過去最低ではありますが、まだ全人口は増加していますので、菓子業界にはさほど大きな影響を及ぼしているとは考えられません。
もう一つの要因としてあげられているのは、進物即ち贈答の罪悪感であります。
贈答は日本古来から日本文化であり、欧米ではあまりみつかりません。例えば旅行をすれば知人や近所の人におみあげを買って帰っておすそわけをする風習は日本独特のものといえましょう。
近時、賄賂が政官界で幾多の問題を起こし、それが為、日本文化の一つ贈答の習慣が崩れつつあることは非常に残念であり、特に菓子業界にあっては昔から「菓子折」という言葉まであってその存在価値はわが国文化の一翼をになったものと自負しておりました。
今やその贈答が高額化し、現金化したことに問題があると思考します。一日も早く昔の日本文化贈答がより一層活発に復活することを希求いたします。
このたびスローガン「信頼される全菓連へ」から「信頼出来る全菓連」に一歩前進させ、全国二万余の全国菓子中小企業メーカーから全菓連の存在意識をより強固なものにしていただきたいとの思いで、第1回理事会のご了承を得て設定し、役員は勿論、事務局と一丸となってこれから二年間全力投球で、組合員の皆さんから本当に信頼出来るとお言葉を頂戴出来るように頑張る決意をいたしておりますので、倍旧のご支援、ご協力を切にお願い申し上げまして理事長就任のご挨拶といたします。
11.砂糖を輸入・国内でも生産 平成15年5月15日
日本の国内で初めて砂糖を生産したのは、江戸時代の中期になってようやく作られ始めたのである。そのさきがけは当時外国であった琉球で、慶長十五年(1610年)に二十斤の砂糖ができたのだそうだ。
琉球以外には、鹿児島や山口県などでも作られるようになった。時代が経って将軍吉宗の頃には、江戸でも試作されるようになったのだが自由に栽培することは許されず、幕府の厳重な管理のもとで作らせていたのだ。
江戸時代に輸入された砂糖は、その殆どが、最初は平戸に、オランダ商館が長崎に移されてからは、出島に陸揚げされ、出島の商館には砂糖蔵があった。
江戸時代の全国の大名家から幕府へ献上された数多くの品物の中に、砂糖がある。
宝暦十二年(一七六二年)の「武鑑」によると、砂糖を贈った藩は、福岡・佐賀・小城・蓮池・島原の五藩である。
砂糖漬けや蜜漬けを贈ったのは、熊本・鹿児島・杵築の各藩であった。
このように砂糖や蜜漬けが献上されたのは、すべて九州特に長崎街道沿いであり、唯一例外は東九州の杵築藩(大分)で熊本藩とかかわりの深い藩であった。
荷揚げする時に、こぼれた砂糖のことを「こぼれ物」と呼んで、荷役に従事していた人達が勝手に処分することが出来たらしく、つまり闇ルートでだんだんその量が増えてきたので、遂に明和四年(一七六七年)にこぼれ砂糖の売買を禁止するようになったが、その7年後に再び復活したらしい。
いかにこぼれ砂糖が多かったか、又それによって利益を得た人たちが多かったことがわかる。
輸入されて間もない頃は、砂糖は一体どのように使われていたのだろうか。
薬種問屋を通して出回ることになっていたらしい。和菓子の原料としてその輸入量の3分の1位が使われたようだが、大名家の日記などには砂糖の贈答は普通の時には用いられず、大事な時にだけ使われたようであった。
大名家でも、菓子たとえば饅頭を出すときに砂糖を別の器に添えることがよくあった。これは砂糖が餡の中に溶けてしまってはいけなかった。
即ち高価なものだから、見えなくなってはならなかっただろうと思われる。
明応九年(千五百年)頃の成立と思われる「七十一各職人歌合」に「さとうまんちう」「さい(菜)まんちう」という言葉があったり、室町中期の「節中集」には「砂糖羊羹」とあって「砂糖」が中世の頃にはステータスになっていた。
しかしながら江戸時代になっても砂糖が貴重品であったことは変わり無い。
饅頭に砂糖を添えなければならなかったのだから、当時の饅頭は甘くなかったということであろう。
日本最初の本格的な料理書である、「料理物語」(一六四三年)には、十四種類のお菓子があるそうだが、うち6種類には、材料に砂糖は、使われていない。
「守貞饅頭」(一八五三年)には「餅の中に餡のあるのを饅頭といい、異国では獣肉を餡とするが日本にはない。
昔は菜饅頭と砂糖饅頭の二種類があったが、菜饅頭が見られなくなってからは、塩饅頭という小豆餡に塩を加えたものとなった。
文化以降になってからは田舎でも砂糖饅頭になった」とある。即ち砂糖の普及は文化・文政時代(一八〇四年〜)になってからのようだ。
国産糖のなかで今も生産され、広く国内で重宝がられているのが、阿波の和三盆糖である。
この阿波の和三盆糖は、安永五年(一七七六年)今の徳島県はその頃阿波と呼ばれ、その上板町はひきの村と云われていた。
その頃このあたりは、いもでも育たない程、土地がやせていた。村の青年丸山徳弥が二人のお遍路さんが自分らの国日向の鼻が島にそっくりだ。
ここらにさとうきびを植えたらいいのにと話しているのを耳にし、日向の鼻が島へ行き、さとうきびの生育状態や砂糖の作り方を盗んで来ようと決心した。
当時はその土地で採れるものを盗むことは捕らえられれば死刑の時代。徳弥は決死の覚悟で日向へ行き、一応収得して阿波へ帰る時に旅の食料にしたいとさとうきびの苗を三本譲り受け、竹の節を抜いてその中に入れ、夜を徹して一目散に阿波へ帰り、早速さとうきびを植え、一生懸命砂糖作りに精を出し、峰須賀の殿様に献上し、大変ほめられたということである。
又、峰須賀侯が直接杖の中にさとうきびの苗を入れて持ち帰り、貧しい阿波の国の産業発展に砂糖作りを奨励されたということも聞かされたことがあるが何れが正しいのか判然としない。
10. お菓子の由来と砂糖の伝承 平成15年3月15日
菓子の日本における由来はと云えば、皆様ご承知の通り古くから田道間守が第11代垂仁天皇の勅命により西暦61年常世国に遣わされ不老長寿の霊草をお求めになった。
辛苦10年非時香具菓即「橘」をえて和歌山下津に上陸、帰朝したが垂仁天皇は既に前年秋に崩御されていた。
復命のできなかったことを悲しみ奈良尼ヶ辻にある垂仁天皇の御陵の前に持ち帰った「橘」を献じ食を断ち天を仰いで快い慟突し、自ら地を穿ち穴に入り殉死した。
景行天皇はその忠節を哀れんで御陵の畔に葬られたということである。
時に西暦七十一年、垂仁天皇陵を取り巻く池の北側中央の島に葬られ、現在その対岸に菓祖田道間守命御塚拝所の碑がある。
田道間守公をお祭りしている神社は、公の出身地である兵庫県豊岡市の中島神社と持ち帰った「橘」の苗木を初めて植えられたといわれる「六本木の丘」のそばにある和歌山県海草郡下津町の橘本神社の二社である。
公を菓祖神として崇めている由来は、古来「菓と果」は同意語であり、日本書記には「橘は菓子にして人の好む所なり」とあり、上代の書にいう「菓子は後世の「水菓子」つまり果物のことであった。
平安時代になれば、今の菓子の製造方法が考えられ、果汁などを用いるようになったらしい。
「栄花物語」には「さまざまなくだものを皆物の形に造りなどして」と書かれ、伊勢貞文の「貞文雑記」にも菓子のことが種々記されている。
即ち古代の菓子は、木の実だとか果物であった。甘味料といえば甘葛(木の樹液からとったもの)や蜂蜜といった自然から採取できるものであった。
平安中期の十世紀末から十一世紀初頭に、一条天皇の皇后定子陛下におつかえした清少納言が、宮廷生活の回想・見聞・自然・人生などに関する随想を綴った長編小説である、「源氏物語」とともに、王朝女流文学の双璧とされる有名な「枕草子」には、かき氷に甘葛をかけて食べたことが記されている。
当時は冷蔵庫も無く、製氷技術もなかった時代のこと、恐らく氷とは、雪を固めて保存したものだっただろうと想像し、それに甘葛の甘味を添えるということは、当時としては最高の贅沢であったと推測出来るのである。
これが世界的にみれば紀元前から砂糖きびの絞り汁が甘いということは知られていたようだったが、ヨーロッパ人は初めて砂糖というものを知ったのは、アレキサンダー大王が紀元前三二七年にインド遠征した時だったといわれている。
後に何百年もかかって、シルクロード経由でヨーロッパに広がったのだ。一方中国には7世紀前半の唐の太宗の時代に伝えられたとされる。
では、日本に砂糖が初めて入ってきたのは一体いつだろうか。
天平勝宝五年(七五三年)唐の「鑑真」の来朝の時である。「東大寺献物帖」には「庶糖二斤」と記されているらしい。「一斤」ということも聞かされたことが有るので東大寺の方に聞いてみたがはっきりしなかった。
二斤という量は一斤が一六〇匁、一匁は3.75gであるから一斤が六百g、だから二斤といえば1.2Lということになるので、手土産として東大寺にお供えをされたのだと思われる。
その後は砂糖についての記録はしばらく無いようである。
次に出てくるのは、天文十二年(一五四三年)ポルトガルの船が種子島に漂流した時である。
ポルトガル人の来航後は勿論ポルトガル船によって、更にポルトガルとの国交断絶後はオランダによって大量の砂糖が日本に運ばれてきた。この砂糖を買うために、日本国内の莫大な金や銅が流出していった。
これら砂糖は、ポルトガルやオランダから直接船積みされて日本へ運ばれたわけでなない。多くは航海途中でインドネシアや台湾などから積み込まれてきたのである。
このようにして日本に砂糖がお目見えしたのであり、国内で砂糖を生産したのは、江戸時代からであり、このことは次回にまわすことにする。
9.「信頼される全菓連」のもと利益第一主義を捨て、
倫理第一主義に企業存続を願う
平成15年1月15日
二十一世紀に入って、はや二年経過し、三度目の新年を迎えました。皆様お揃いで元旦をお迎えになられたこととお慶び申し上げます。
昨年は食品業界にとりまして、誠に残念なニュースばかりで、私達菓子業界も他人事ではすまされなくなり、添加物では一部わが業界にも飛び火をした次第です。いずれにいたしましてもこれらの事件は全部内部告発がきっかけであり、企業の姿勢を考え直さなければならない問題であります。
今までの考え方では従業員は愛社精神によって、自分の勤務している企業の悪口を言われただけでも、立腹した時代が永らく続いておりましたが、昨今ではこうした内部告発者を擁護するような法律を作らなければならないと、その準備に取りかかられているとか、経営者としてはよくよく考え直して企業倫理の上にたって、利益第一主義を放棄して、企業倫理の上に立って、利益第一主義を放棄して、倫理第一主義に変換しなければならない時代に突入しました。
幸いにして、全国菓子工業組合の傘下企業は比較的小規模の事業者の集まりであり、よく言えば労使関係が身内のように、主従の関係も濃厚であり、大企業程利益追求心薄く、それよりも企業存続第一主義であると思います。
自分の職業を通じて社会に奉仕するという理念のもとに、経営に携わっておられる賜と敬服いたしますが、今後ますますこのような傾向が増大するものと思考されますので、労使関係は勿論、社会からみた一企業として倫理にそった正しい経営姿勢を貫いていただいて、菓子業界からは表示違反・製造工程等十二分に注意され、全菓連関係の組合員から今後一人の犠牲者も出ないようお互いに注意致したいと年頭にあたり念願いたします。
昨年の事業を振り返って
先ず、昨年11月には「くまもと菓子博二〇〇二」が開催され、目標入場者数を10万人も上回る、56万人の方が来場し、大成功に終わりました。
ご当地熊本の関係者の皆様の開催に至るまでのご苦労を思い浮かべますと本当にお世話を掛けたと思います。改めてここに深く感謝の意を表したいと存じます。
また、第25回全国菓子大博覧会の開催地が兵庫県姫路市に、正式決定致しました。会場が姫路城周辺であることは、同じ城下町である熊本菓子博が、大いに参考となり、必ずや大成功することでしょう。
一、中小菓子製造業の振興対策=
全菓連では、これまで行政より菓子業界の窓口統一を求められていたことなどから、昨年、全日本菓子協会への加入しました。同会では「地域商圏事業者委員会」を設置し、地域が商圏の製造直販の生菓子メーカーなどに関する問題を検討しています。
青年部関係では昨年はじめて関東甲信越ブロックと中部ブロックがブロック大会を開きました。また、他のブロックと合せると全部で四百名近い青年が参加し、大きな成果を上げています。本年は2月に全員参加型の全国大会を開催する予定です。
一、組合強化策=
一昨年より実施中の「消費者啓発・需要拡大事業」を本年も引続き行いました。菓子まつりや経営講習会などに活用されていますが、青年部に企画、運営を任せている組合も多く、後継者育成にも役立っています。
情報提供事業としては全菓連ホームページ「お菓子何でも情報館」をリニューアルしました。アクセス件数も、20万件を超える勢いです。
また、店頭PR用に「お菓子と健康」のチラシを作成しました。在庫も、若干あ
りますので希望する者は早めに注文して下さい。
菓子原材料の安定供給対策では、特にエリモ小豆を組合員の要望に応え、1年間の通年販売としました。
一、食品衛生管理対策など=
全菓連はハセップ手法支援法の認定機関でありますが、同法に基づく融資を活用するため審査を要望する企業が増えてきました。一定の条件を満たし、全菓連の認定を受ければ農林漁業金融公庫から低利・長期の融資と税制の特別償却が講じられます。
さて、この一年、平成不況・デフレの波は弱まることなく、ますます力を増して金融面や税制面で一層の大波に襲われることと覚悟しなければならないと存じます。私達は一層団結を強固にこれらの波にたち向い、陳情活動をより活発に業界の更なる発展のために「信頼される全菓連」をスローガンに邁進してゆく所存です。皆さんの熱い応援を切に希求いたします。
8. やっかいなゲル化剤 ゼラチン 平成14年12月15日
今から40年年近く前のことだろうか。丁度缶入りの水ようかんやプリンが出始めた時のことでした。K市で買い求められたゼリーであったかと思いますが、缶を開けてみれば中は水溶液でぜんぜん固まってない。
なぜなのかと質問を受けたことがありました。その人は、寒天か何かゲル化剤を入れ忘れたのではなかろうかと疑問に思っておられました。開缶した内容物をお皿に入れて冷蔵庫で冷やしてみたら固まってきましたので、この商品は「ゼラチン」を使用していたのだと結論づけたことを思い出します。
口あたりがよくて独特な柔らかさを持っているので、ゼリーやババロアなどお菓子のなかでデザート類によく使用されています。
それでは一体「ゼラチン」は何からとれるのかというと、動物の細胞質に含まれています「コラーゲン」という「硬蛋白質」は水やアルコール、アルカリや酸などの液体には溶けにくい性質をもっています。
「コラーゲン」は動物の体の中で細胞の構造を維持したり、組織の硬さを調節したりする役目をもった蛋白質であります。だから自然の状態では動物の組織から「コラーゲン」が溶け出してくることはありません。
しかしこの「コラーゲン」の構造は「加熱」することによって不安定になります。だから動物の組織を長時間熱湯で加熱すると「コラーゲン」の構造が崩れて、それを構成している蛋白質である「ゼラチン」が溶け出してきます。
市販されています「ゼラチン」は牛の骨や豚の皮などを原料として作り、板状に固めて乾燥させたのを「板ゼラチン」、紐状に乾燥させたのを「粉末ゼラチン」と呼んでいます。
この「ゼラチン」の基本構造は約千個のアミノ酸が細長い鎖状に並んだもので、いったん溶かしものを冷却すると仲間同士で引き寄せあって「網目状」の構造を作るという性質があります。だから溶けた「ゼラチン」を冷却すると分子が網目状に集まって、その隙間に溶体が包み込まれて特別な弾力を持ったゲル構造が出来るのです。
但し「ゼラチン」の場合、他のゲル化剤と違ってこの編目構造が比較的低温から崩れ始めますので、夏場など気温の高い時期には必ず冷蔵庫に入れるなど他のゲル化剤以上に温度管理が必要であります。
「ゼラチン」は冷たいゼリーやババロアを作る時に使われるゲル化剤の一種ですが、口あたりがよく柔軟性に富んでいるのでよく利用されています。
「ゼラチン」は動物の骨や皮の中に含まれる蛋白質を熱湯で抽出したものですから「ゼラチン」を溶かした液体に蛋白質を分解するような物質を添加するとゼラチン分子のあちらこちらが切断されて凝固する力を失ってしまいます。
例えばパイナップルの中には「プロメリン」という蛋白質分解酵素が含まれていますので生のパイナップルを混ぜ合わせると「ゼラチン」がバラバラに分解されていくら冷やしても固まりません。このような蛋白質分解酵素を含む果実としては、パイナップルのほかにパパイヤ、キウイ、イチジクなどがあります。このような果実や果汁を入れる時には、果肉や果汁に火を通して分解酵素の働きを弱らせた後に「ゼラチン」と混ぜ合わせたらよろしい。また、既に加熱処理した缶詰や壜詰を使うと心配いりません。
どうしても生の果肉を混入しなくてはならない時は他のゲル化剤で果肉の表面を保護してから「ゼラチン液」に加えたらよろしい。
強い酸や熱による変性を起こしたりバラバラに分解されたりする性質を持っているから非常に酸味の強いレモンなどを混ぜ合わせるタイミングや温度などに充分注意する必要があります。使いにくいゲル化剤の一種であります。
7. 妻に先立たれて想う 励ましを受けた皆様に感謝して
平成14年9月15日
水無月の月末、6月26日午後11時頃、急逝いたしました妻安津子の通夜・葬儀告別式には全国各地より温情溢れる業界の皆さん方よりご弔慰・ご弔問・ご厚志を頂戴いたし誠にありがとうございました。
大勢の皆様にご焼香をいただき、さぞかし妻も九泉の道を歩みながら感謝いたしていることと存じます。
亡くなります当日も、朝10時頃、私と一緒に家を出て、私は大阪府庁で先に降り、妻は駿河屋へ運転手に送ってもらい、店でも従業員と一緒にお中元の注文を処理すべく手伝っていたようです。
夕方6時過ぎに終業して運転手に芦屋の自宅まで送ってもらい何の異常もなかったようでありました。
私は夜遅くなり12時30分頃タクシーで帰宅し「只今」といつも通り声をかけてみましたが何の返答もなく、リビングからテレビの音声が流れ、台所には犬の食事のご飯が鍋に火がついたまま黒こげになっていました。
びっくりして探しましたら、リビングのソファーの上で左を下に傾けて寝ているようでありました。「安津子」と声を掛け、体を揺すり、起こそうとしましたが何の変化もありません。
額に手をあて、手を握ってみましたが冷たいというより少し変だなあと感じ、直ぐ息子の博之のところへ電話をかけ、息子の嫁がすぐ救急車を手配してくれ4分後にかけつけて頂きましたが、既に瞳孔は開き呼吸はなく、脈拍もないとのことすぐ芦屋警察署へ連絡され交番からまた本署からは刑事の皆さんにお越しいただき外部から人の入った気配もないとのことで検死されましたが異常なく、かかりつけの医者があればということでしたが、かかっておらず知り合いのお医者さんでもといわれ、前国立循環器病センターの心臓外科部長で現在、泉佐野市立市民病院名誉総長の藤田先生に電話連絡させて頂きましたら寝間着で芦屋まで、一時間半位かかるので芦屋医師会会長の福岡先生にお願いをしておくとのこと
早速パトカーに福岡先生をお迎えに行っていただき往診をいただきましたが救急隊と同じ所見で6月26日午後11時頃心筋梗塞で死亡との死亡検案書をいただきました。
誠に残念であります。恐らく私の帰宅を今か今かと待ち続けたであろう妻の気持ちを察し、私は懺悔の念で一杯であります。
享年74歳。
72年10ヶ月余りの人生を、全うしたのではないかと思います。
日頃音楽を愛し、特に好きだった「マイウェイ」「夜空のトランペット」「いとしのエリー」などを葬送中に入れ、最後は同窓の皆様の母校大阪府立清水谷高等女学校の校歌で野辺に送りました。
今考えてみますと色々な因縁があるようであります。
亡くなりましたが6月26日は、ご門徒の皆様であればご存知の「帰命 量寿如来」で始まります正信偈のなかにあります「本師曇鸞天子」の曇鸞大師のご命日も太陽暦で6月26日となるそうで、母浄 院釋尼澄悦が亡くなりましたのも月こそ違え、12月26日、同じ26日であります。私の誕生日も10月26日であります。
また、亡妻の77日滿中陰は8月12日(月旺日)でありますが一日繰上げさせて頂いて日旺日の8月11日に営ませて頂きましたが、これも丁度妻が生きておれば滿73歳の誕生日に当たります。
家内が、姪に8月1日の阪神・横浜戦の甲子園の切符を差上げたお礼の手紙に姪あてに晩年送った手紙の一部をコピーして同封していただいておりました。
ご披露させていただきます。
「私は今現在のこの一時、この瞬間、今日一日、今一時を大切に有意義に送ればよいと思うのです。来世などきっとないと思います。
孫との思い出、主人との思い出は私一人が胸に秘めて一人でほくそ笑んでおきたい方です。
やはり人間は一人で生まれ、一人で死んでゆくのですから基本的には孤独なものでしょう」
「今年の阪神嬉しいですね。今年の強いのは秋までホンモノであってほしいです。
老人の友人と死ぬまで、前の時の優勝のさわぎをしたいものです。スナックを貸しきって…そしたら良い気分であの世に行けますものね」
晩年の妻の気持ちもわかるようです。
九泉の道を歩んでいるであろう亡妻を思い出しながら、あたり前とはいえ戦前生まれの旧制教育を受けた私では家事も手につけることは出来ずもの言う相手のない毎日ものの言えない世界を味わっております。
息子夫婦のところで食事する時が一番楽しい時であります。女手の無い家庭のわびしさを痛感いたしております。
皆様奥さんを大事にご夫婦お揃いでご円満な家庭を築かれる日の一日も長いことを念願しております。
6. ゲル化剤とは 寒天について考える 平成14年5月15日
「寒天」の発見は、西暦一六五八年。明の福州の人で名は隆埼といい、明即ち現在の中国福健省福州府福漬県にある黄壁山万福寺の隠元が西暦一六五四年に末日、京都宇治に黄壁山万福寺を建立し、日本三禪宗の一つ、臨済派の一分派である黄木宗を開いた開祖であり、諡号は大光普照國師(西暦一五九二年〜一六七三年)と称した江戸前期の帰化僧の隠元禪師が「寒天」
という名前を命名したのであります。
即ち万治元年(西暦一六五七年)山城の国、現在の京都伏見の主人である美濃屋太郎右衛門が天草料理の残りを屋根に干しておいたらいてついているのを発見し、これを隠元禪師に「寒天」と名付けてもらったのであります。
この寒天を京都伏見の駿河屋六代目岡本善右衛門がいち早く当時の羊羹は今でいう蒸羊羹から今日の煉羊羹に改良したのであります。
今日の「寒天」は羊羹や淡雪羹・琥珀糖などの和菓子のなかで「流物」にとってはなくてはならない重要な原材料の一つで、これら「ゲル化剤」と呼んでいます。
ゲル化剤とは、分子同士が編目状の構造を作って液体をゼリー状に固める性質を持っている物質で、習慣的に「凝固剤」と呼ぶこともあります。このゲル化剤は大きく分類しますと蛋白質系のゼラチンと糖質系の寒天・カラギーナン・ペクチンとの二つのグループに分かれます。
けれどもこの二グループとも本来は、動物や植物の細胞膜や細胞間質を形成している物質で、水には殆ど溶ける性質をもっていることと多数のアミノ酸(または単糖類)がずらりと並んだ非常に細長い鎖状の構造をしていて、構造のあちらこちらに仲間同士で引き寄せ合う箇所をもっていることなど共通の特徴があります。
このような特徴をそなえている物質、つまり「ゲル化剤」は一般に熱水の中に溶けている状態では、分子の運動が活発なので溶液の中を自由に動き回っていますが、液体の温度が下がってくると、徐々に運動が不活発になり、仲間同士で引き寄せ合うようになります。するといずれのゲル化剤も細長い鎖のような形をしていますので全体ではちょうど「細かい網目」のような状態となり、その網目構造の隙間に液体成分が包み込まれていきます。
だから「ゲル化剤」を使ったお菓子では大量の水分を含んでいるにもかかわらず、ゼリーやババロアのように弾力のある状態になることができるのです。
しかし、仲間同士で引き寄せ合っている部分の構造は、「ゲル化剤」の種類によってそれぞれ異なっています。
また、ゲル化剤の凝固する条件(温度・pHなど)や仕上がった「ゲルの特徴(硬さ・口当たりなど)もそれぞれ異なっています。
だから各々のゲル化剤の性質を充分に知って目的とするお菓子の特性に最も適したゲル化剤を選ぶことが大切であります。
さて、寒天は天草などの「海藻(紅藻類)」を原料としていますが、本来は海藻の中で細胞壁を保持するという大切な役割を果たしている物質ですから自然な状態では寒天の成分が水の中に溶け出してしまうことはありません。
ところが前に述べたように「寒天」も他のゲル化剤と同様、水には溶けにくいが熱水には溶けやすいという性質をもっています。
だから、天草を熱水で加熱すると寒天の成分が煮汁の中に溶け出してきます。
この煮汁をきれいに漉した後、凍らせた状態で乾燥したものが市販されている「寒天」です。
この凍結法には二つの方法があり、冬の寒冷な天候を利用する「天然寒天」と、工場で機械を利用するものを「工業寒天」と呼び、一般に天然寒天は「棒寒天」や「糸寒天」、工業寒天は「粉寒天」が製造されています。
このようにいくつかの形態がありますが成分的にはどの寒天も90%以上がゲル化作用をもつ「糖質(多糖類)」で占められています。
この多糖類は「ガラクトース」という名前の糖質とその「誘導体」が非常にたくさん並んだものでいったん溶かした物を冷却すると分子同士が引き寄せ合って細かい「網目状の構造」を作るという性質をもっています。
この網目構造の隙間に液体成分が包み込まれて、独特な弾力を持つ、ゼリー状の固体に仕上がるのです。
但しこの寒天の構造は「酸」に非常に弱く、酸性の強い果汁などを加えて熱すると糖質同士のつながりが切断されてバラバラになってしまいます。
だから寒天に酸性の強い果汁を混ぜ込んで固める場合は、先ず寒天を充分に煮溶かして、ある程度、祖熱をとったものに手早く果汁を混ぜ込ませなければなりません。
また、他のゲル化剤に比べて寒天で作ったお菓子は水分が分離しやすい。つまり「離水」しやすいという性質をもっていますから普通の場合、寒天を用いたお菓子には砂糖を多量に添加して出来るだけゲル化の「保水性」を高めるようにしています。
参考までに「保水性」とは水の分子を引き付ける力で、砂糖はこの保水性が非常に高いため食品の離水や乾燥を防ぐ効果をもっています。
5. 「pH」、「水分活性」をご存知ですか・菓子製造も科学的に考えよう
平成14年3月15日
昨年の11月27日、厚生労働省医薬局食品保健部基準課より「ボツリヌス菌による食中毒防止のための規格基準設定について」説明がありました。
菓子業界においても「くず餅」、「くずまんじゅう」、「水ようかん」、「ういろう」など該当商品も相当数あると思われるので事務当局より各県菓子工業組合へ調査依頼を行って、関係菓子他団体と一緒に反対陳情を行ってまいりました。皆さんもすでにご存知であろうと思います。
簡単に申せば
1、気密性のある容器に入れられ 2、pHが4.6を超え
3、かつ水分活性が0・94を超える食品については
4、中心部を80℃で20分加熱 5、かつ10℃以下で保存、製造から流通消費に至るまでの一貫した温度管
理が必要
6、また、要冷蔵の表示(20ポイント以上の大きさが必要)となっています
この1から6までの文中にある「pH」、「水分活性」という言葉が、理解出来ない多くの方々に接しました。
勿論、お作りになっている菓子についても、お作りになっている菓子にこの「pH」、「水分活性」を測定されたこともないというお店が多いのが実態でした。
今の若い方ならどうかはっきり知りませんが、昭和3年生まれの私では、旧制帝国大学の入学試験に「pH」について知るところを述べよという問題がよく出ていたことを思い出します。
旧制高等学校理科の課程で習ったものでした。これが今日では一般化されて、私達菓子業界の規則にも使用されるようになりました。
知らないでは通らない時代になってきました。ご存知のお方も多かろうと思いますが、一応できるだけ分りやすく記述しています。
「pH」はペーハーまたはピーエッチと読みます。液体の性質を表すのに「酸性」「アルカリ性」という言葉があります。
この基準になっているのは、液体の中に含まれている「水素イオン(H)の濃度で、この「pH」という単位で表します。
この「pH」には0〜14までの目盛りがあって、その真中であるpH7を「中性」としそれより数の小さい範囲を「酸性」、反対に数が7より大きい範囲を「アルカリ性」と決めてあります。 例えば卵白は8.5位でアルカリ性、レモンは2で酸性です。
「水分活性」については、お菓子の中でもクッキーのように2〜3%の水分しか含まれてないものや、ゼリーのように80%以上が水分で出来ているものもあります。このように水分の量だけを問題にすることが多いようですが、水分の量より「質」の方が重要なポイントとなることが多いのです。
このようにお菓子の中に含まれている水分には「結合水」と「自由水」の2種類があります。「結合水」はお菓子の中の成分である糖質や蛋白質など強く引き付けられていて身動きが出来ない水分。
つまり「束縛された水分」のことです。この「結合水」は、お菓子の劣化を引き起こす腐敗菌などには利用されない特性を持っています。
反対に「自由水」はお菓子の中を自由に動き回ることのできる水分のことで、腐敗菌が増殖する際にも利用されますし、澱粉の老化も促進します。だからこの「自由水」はお菓子の劣化に直接影響する水分と云うことができます。
このように「結合水」と「自由水」ではお菓子の保存に及ばす影響が大きく異なっています。この水分の違いを明らかにするために、全水分の占める「自由水」の割合を数字で表示するのが「水分活性」という表示法でAW(water actevity)という記号で表します。
この「水分活性」の数値が大きい程「自由水」の割合が高いということを表していますから劣化しやすくなります。細菌は「水分活性」が0・9以上、酵母0・88以上、カビは0・8以上の条件で活発に増殖しますから保存性を高くするためには「自由水」を減らして「水分活性」をできるだけ低くすればよいのです。
例えば水分量が一定であれば砂糖など保存性の高い成分を加えれば、加えるほど「自由水」が「結合水」に変わり、保存性が高くなります。
これからも少しは科学的にお菓子を考えてみたいと思います。
4. 菓子業界の振興発展ために
チャレンジとクリエイト精神を 平成14年1月15日
21世紀になってもう三六五日が過ぎ去り、新しい2002年の新年を皆様お揃いでお迎えになられたこととお慶び申し上げます。
21世紀初頭に構造改革を掲げた人気絶頂の小泉内閣が発足したものの未だに全容を眺めることが出来ず、日本経済は右肩下がりの状態が続いております。
また真珠湾沖で起きた「えひめ丸」とアメリカ潜水艦の事故ですが、この遺体捜索作業がアメリカ海軍によって長期にわたりなされたものの、遂に一体が発見出来ずに終了しましたことは誠に残念であり、痛恨の極みでありました。世界に目を向ければ世界中を驚嘆させました大事件が勃発しました。
ご承知の通りニューヨークで起こりました同時多発テロ事件はテレビで全世界にその現実の映像を流し、これに端を発しアフガニスタンへ米英を中心に爆撃を開始し、日本も法改正をしてテロ撲滅にむけて自衛隊を派遣して後方支援をするようです。アメリカでは炭疸菌、日本では狂牛病で景気後退に拍車をかけているのが現状であり、菓子業界にもゼラチン等で影響を及ぼしております。
かかる情勢下私達の業界も御多分にもれず消費の低迷・贈答の減少によって四苦八苦いたしているのが現状でしょう。
このような中で、去る、5月18日の全国菓子工業組合連合会の総会におきまして、第五代理事長に選任されました。理事会のご承認を得て前古谷理事長の掲げた「明るい開かれた全菓連」は殆どその役を終ったものと信じ「信頼される全菓連」を新スローガンに出発しました。
ただ、残念ながら前古谷理事長と本村副理事長の訃報に接しました。ともに弔辞を捧げて哀悼の念を表すると供に惜別のやむなきに至り、改めてご生前のご功績を讃えたいと存じます。
昨年の事業を振り返って
1、組合強化策
昨年は、商工組合の新たなる役割を検討した結果「消費者啓発・需要拡大特別事業」を2年間にわたり各組合で実施して頂くことになりました。
このため各都道府県、均等に総額四千六百万円を支給いたしております。現在、菓子祭り開催や経営講習会に活用されていますが、本号でもカラー面で紹介しています。
菓子原材料の安定供給対策では、特に国産豆類利用推進事業を活用した北海道産サホロ小豆の確保と定着が進んでいます。
情報提供としては、菓子工業新聞を12ページに増やし、内容の充実を図りましたが、おかげさまで発行部数が千部以上も増加しました。
全菓連ホームページ「お菓子の情報館」は、リンクを希望する企業や、質問コーナーに消費者からの質問が相次いでおり閲覧者が年内には8万人を超える勢いです。
また、組合が情報化社会に対応して頂くため「組合活動と情報化」をテーマに事務局研修会を実施しました。既にIT化が進んでいる組合からの事例報告や一人に一台パソコンも用意し、実技研修を行いました。
新宮様のご誕生の際には全菓連で祝賀ポスターを作り、配布しました。
2、中小菓子製造業の振興対策
政策、要望関係では本年新たに、自民党に対して菓子製造中小企業者がメインバンクにしている商工中金の民営化反対に関する要望書を提出しました。
青年部関係では、昨年、中・四国ブロックが全国ではじめて全県参加の代表者会議を開きました。本年はこれまで実施していなかった関東甲信越ブロック、中部ブロック、近畿ブロックが春先から初夏にかけて相次いでブロック会議の開催を予定しています。
3、食品衛生管理対策など
HACCP手法支援法の指定認定機関に指定された全菓連では、同法に基づいた融資をより多くの菓子業界の方々に活用していただくため「菓子製品の製造過程の管理に関する説明資料」を作成し、説明会を開催しました。
一定の条件を満たし、全菓連の認定を受ければ農林漁業金融公庫から低利・長期の融資と税制上の特別償却が講じられますので、ぜひご活用下さい
また、食品事故再発防止対策推進事業を活用して、悪意のクレームも収載した「食品事故再発防止ハンドブック」を作成しました。
さて、本年は新世紀最初となる菓子博が11月に熊本で開催されます。昨年5月には潮谷県知事出席のもと全国の菓子関係者が一堂に集まり「全国代表者会議」が開かれ基本構想など承認されました。
内容もブロック単位の展示と2段階の審査方式をメインに改善されておりますので、どうか御協力をお願い致します。
全菓連では本年も昨年以上に菓子業界の振興発展ために、チャレンジとクリエイトの精神で果敢に尽力したいと思います。会員各位のさらなるご指導ご支援ご鞭撻を切にお願い申しあげ年頭のご挨拶と 致します。
3. 菓子作りに生涯を捧げた人 平成13年11月5日
古谷さん、古谷理事長さん、古谷相談役さん、今幾度かお呼びさせていただきましたが、何もお答え戴けません。
誠に寂寥を感じ、哀惜の念一杯であります。ここに謹みて、全国四十六都道府県菓子工業組合を代表し、北海道菓子工業組合理事長 古谷富雄様の御霊に惜別の言葉を捧げます。
故古谷様は、株式会社富留屋社長として菓子の道一筋に今日の社業発展を築かれました。また、永きにわたり業界団体の要職にあって菓子産業の振興にもご尽力されました。
そのご功績は、事業経営者の範として心から敬意を表するものであり、今春、勲四等瑞宝章を受章されましたことがその総てを物語っており、今となればご生前、最後のチャンスにもらっていただいたのがせめてもの慰めであります。
御家族ならびに従業員の皆様の御心情を察しします時、断腸の思い切なるものがありますが、故人の御遺志を忘るることなく、社業のますますの発展にご努力されますようお願い申し上げます。
古谷様は、昭和三十九年北海道菓子工業組合設立期より組合運営に携わられ、地域菓子産業の振興にひたすら御尽力されますと共に、中央におきましては本年五月まで四期八年にわたり菓子業界最大の組織であります全国菓子工業組合連合会の理事長を務められました。
特に、一時期、混迷状態でありました全菓連を正常に戻すため「明るく 開かれた 全菓連」をスローガンに、強いリーダーシップを発揮し、組織の確立と業界の融和発展に努力されて参りました。
改めて生前の御偉業と御遺徳をお忍び申し上げますとき、その誠実なお人柄は組織全体の指導者として全国組合員の信頼を一身に集めておられましただけに、私たち一同にとりましても痛恨の極みであり、深い悲しみの中にあります。
また、古谷様は和菓子作りに生涯を捧げられました人と言っても過言ではありません。古谷様が御執筆なされました著書「見直し菓子の路」は菓子創り人の指針として、後生にまで伝えられることでありましょう。
全菓連機関紙「菓子工業新聞」においては来春より、続編を御執筆していただく予定でありました。ご本人も強い御意欲を示しておられましただけに残念でなりません。
十一月三日文化の日は明治の御代から雨の少ない日となっておりますが、昨日私が大阪を出発します時は、あなたとのお別れを惜んで涙雨が軒をうっておりました。
ここに私たちは、古谷様のお志を体し、菓子業界の発展と全菓連のますますの組織体制確立に、御生前あなたが発議されました菓子需要拡大事業を各都道府県より二年間、助成金総額四千六百万円を均等分配させていただくとともに「信頼される全菓連を新スローガンに、力の限り努力することをお誓い申し上げ、御霊の御冥福を心静かにお祈り申し上げまして、弔辞といたします。
もう一度、お呼びさせて下さい。古谷さん、古谷理事長さん、古谷相談役さん。さようなら。
2. わ が 地 球 平成13年11月15日
50億年前に地球ができ、40億年前に生物が、60万年前に旧原人が、1万年前から新人が、文明は5〜6千年前からできたものと思う。旧約聖書には人類はエデンの園にいたと書いてあります。
エデンの園で智慧の実を食べた人間が智慧を得た結果「自分」というものを知ります。自ら他者・世界と分けた自己を認識し、これが聖書で言う「智慧」だと思います。その結果、それまで裸でいても恥ずかしくなかったのに神に呼ばれたアダムとイブは、恥ずかしくなってイチジクの葉で前を隠しました。
イチジクの葉は自分と他を分つ智慧の象徴です。
そして神は「お前達は智慧を得たのだからもうここにいてはいけない。
そして女は産みの苦しみを味わいなさい。男は額に汗をして大地を戦いなさい」といわれ、人類の歴史が始ったと旧約聖書にかかれています。未来は救いの時が来ます。
その時に狼の傍で羊と幼子が遊んでいる本当の楽園です。エデンの園という楽園から追放されて人類の歴史が始り、またエデンの園のような所に還っていくこれが聖書の世界観です。
今、私達は人類の歴史の中で周りと戦っています。智慧を得た結果、色んな努力をしますが、美味しいものを食べたい、いい目をしたいという欲望を満たすことの繰り返しです。
欲望とは満たせば満たす程、大きく成長し、また、私たちに帰ってきます。少しも心の安らぐことはありません。
この点についてお釈迦様は人生に対する悟りとして、産む、老いる、病む、愛人と別れる、嫌な人と合う、要するに人生は全ての苦悩から成り立っていると考えました。
どうすればその苦悩から逃れることができるのか。
それは欲望を捨てることだ。煩悩を捨て去りなさいとお釈迦様は言いました。それが「悟り」です。私達凡人には煩悩を捨て去ることはできません。できないから「よりよい生活をしたい」そんな風に思っています。
いろんな努力をして今の私達「衆生」があるのだと思います。
物理的な地球の歴史を見れば誕生間もないころは生物が生きれるような星ではなかったはずです。
その星が何億年という植物の光合成のおかげで酸素ができだんだん生物が住める星になってきました。
そして安定した大気に被われるようになり、私達人類も歴史を刻むことができるようになりました。
ところが長い地球の歴史ではごく最近のことですが、産業革命以降ワットが蒸気機関を発明し、私達人類は自分の欲望を満たすために、地表に穴を開け、その中から何億年という期間を掛けて地球が蓄えてきた太陽エネルギーの化石を地表に取り出して、何万年、何億年分のエネルギーをここ数百年の間に大気に放出しているわけです。
そのため物質的には大変、豊かになっていると言えますが地球は汚れきり、もうほぼ限界に近付いて来ています。
そのことが地球温暖化の問題やオゾンホールの問題などに現われています。こんな地球で私達は生存し、菓子作りに精を出しています。
もっともっと地球を可愛がりたいものだと思います。
1. 本村辰義様との惜別を顧みて 平成13年8月15日
福岡県菓子工業組合理事長・全国菓子工業組合連合会副理事長本村辰義様の訃報に接し、その真実の程を疑ったのでありました。
去る6月29日、本紙の編集会議のため全菓連事務局に伺った時でありました。増田専務理事より本村さんが入院されている由承り、5月18日の総会にはお元気な姿で議長をお務め頂き、その席上、不祥私、理事に推され、引き続いて開催されました理事会において本村副理事長さんもご同席で、全菓連第5代理事長に推挙いただいたのが、まだ目の前にちらついております。
総会終了後古谷前理事長の勲四等瑞宝章ご受賞祝賀会と新三役披露パーティーで最後の閉会の挨拶をいつもの独特のゆっくりした口調で行き届いた言葉で締めくくっていただいたあの日のこと、本村さん外、多くの先輩の方々をさしおいて理事長に就任しました私としては特に印象深く、走馬灯の如く脳裏を駆け巡っております。
その本村さんがご入院、そしてご容態芳しくない状況であることを聞かされ、土日の休日の連絡を特にお願いして、ご快復の一日も早からんことを祈念しつつ足重く帰阪しました。
それから土日の二日が過ぎた7月2日の午後7時55分ご逝去という痛ましい知らせを受けたのは、7月3日の早朝、千田事務局長より自宅で連絡を受けました。
当日大阪のリーガロイヤルホテル梅の間で第24回全菓博九州in熊本の展示場割当・装飾検討の近畿ブロック会議が2時より開催され、その席に熊本県から布井さんと片岡さんがご同席いただき園田理事長さんは本村理事長さんの訃報を聞かれ、すぐにお帰りになったと承りました。
異口同音5月18日の全菓連総会の話で、人生のはかなさ、無情さを噛み締めあいました。
翌7月4日は第1回全菓連青年部・中国四国ブロック大会に出席のため岡山に出張、全菓連の増田専務は岡山から直接福岡の本村さんのご葬儀に参列、私は一旦大阪へ戻って明朝改めて九州を出発することにいたしました。
当日は大阪府製菓衛生師試験委員会がありましたが欠席させていただいて午前7時10分新大阪発の「ひかり」で博多へ向かいました。天気予報では曇り。雨は夜になって降るとのことで傘は持たずに関門トンネルを越えて博多駅に到着しましたらホームに増田専務が待っていて下さいました。早速、積善社福岡斎場へ、待合室に案内されて開式の11時を待ちました。
定刻5分前案内されて斎場指定席につき、本村理事長さんの遺影を眺めながら在りし日の面影を偲びつつ喚鐘の音を聞きながら、導師外6名の僧侶が入場、一同導師に合わせて合唱礼拝をしました。
祭壇は菊の花畠の上に銘菓を左右に一杯並べられ、大きな勲五等双光旭日章を胸にされた本村さんのカラー写真の前に工芸菓子の花一輪が供えられ、いかにも菓子業者らしいしつらえでありました。
導師の引導、追悼の辞に続いて弔辞が、葬儀委員長福岡県菓子工業組合田中治雄副理事長、同県知事、全菓連理事長、同県中小企業団体中央会坂本会長、参松工業株式会社横山社長、同県菓工組茶屋達郎副理事長続いて遺族代表喪主本村博之氏の挨拶。読経、焼香と進み、焼香を終えて外へ出ようとしたら、涙雨にしては大粒の大雨。うかにも本村さんとの惜別の涙でありました。
菓子業界にあっては貴重な存在であった本村さん。5月30日の同県菓工組の総会において引き続き、理事長に推挙された由、6月6日にご入院され、一ヶ月もたたない闘病生活で幽明境を異にされてしまった本村さん。さぞかし奥様のお体のことが気掛かりでありましたことでしょう。本当に残念至極であり、ご冥福を心からお祈り申し上げます。
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