各地の菓子店探訪,岐阜県菓子店

2014.10.16

「栗おはぎ」ものがたり

真面目にコツコツ三十六年

東海テレビで放映された香梅 それは三十六年前の事でした。当時三十一才の私は、京都の俵屋吉富さんで修業を終えて我武者羅に仕事をしていました。

 「このままでは、自分や社員さんの給料も上げられない。何か新製品を考えなければ」ともんもんとする日々でした。そんな折、父の時代から入っていた百貨店の課長から一週間の催事をやれとの事、訳もわからず、店売りの商品を並べたところ惨憺たるものでした。課長曰く「二万や三万の催事ならやるな!!」と怒鳴られ、私の反骨心に火がつきました。名古屋の百貨店の催事場はもちろん、東京の銀座の高島屋から日本橋の三越まで百貨店めぐりをして「何が売れるか」と見て歩きました。最後は疲れて三越の観音様の前の椅子に座り、昼寝をする始末。

東海テレビで放映された香梅 その結果、思いついた事は「催事場はおやつなんだ。そして実演が必要なんだ」「できあがるのを見ながら待ってくださる」「自然と行列ができる」その当時「サザエさんのおはぎ」が、実演販売でよく売れておりました。「おはぎをやってみようか」と思っていたら父が「死んでも小豆のおはぎはやるな!!」と言われ、どうしたものかと悩みました。

 数日たち、栗きんとんをそぼろにして、餅米にまぶしたらどうだろう。「栗おはぎ」の誕生です。「これが駄目なら二度と催事はやらない覚悟で始めたところ、初日から朝から晩まで行列ができ、一パック三百円(六ヶ入り)が一〇〇〇パック。三十万円の売上げでした。

 「どうだ」とチラッと課長を見ると知らぬ顔でした。悔しかったが留飲を下げる事ができました(三十六年前の事でした)。

 平成元年から、名古屋の「松坂屋」の催事場で二十二年間出店して成績を残しました。最初は屋号も呼ばれず「変な栗のおはぎを売る店がでてきた。何処から来てるんやろ」その後「香梅って言う店らしい」それでも呼捨でした。数年して実績ができるとやっと「香梅さん来年も頼むよ」…

 平成二十五年九月に東海テレビ(東海三県)の「東海仕事人列伝」に十五分程放映していただくチャンスがあり、連日行列ができ店頭で「実演」をした結果、栗の材料がなくなり、十月いっぱいで打ち切りました。

 真面目にコツコツ三十六年、テレビ局という「神様」が降りて来て御駄賃をくれました。

 岐阜県菓子工業組合・御菓子香梅・小森文夫