視点

「稲むらの火」(平成25年7月)

みんなが知ろう 一五九年前の津浪

アジアの東、日本列島では天災といわれる台風・地震・津波等のニュースには事欠かない。直近の平成23年3月11日の東日本大震災は地震に津波が加わり、その上に原子力発電の放射能もれ、未だにその後始末が終っていないのが現状である。

関東大震災でも阪神淡路大震災でもなかったのが津波だ。原発も津波の影響が大きい。津波という言葉は、私の小学校時代の国語の教科で教わった「稲むらの火」を思い出す。この「稲むらの火」は2005年1月インド洋大津波をうけてジャカルタで開催された東南アジア諸国連合緊急首脳会議の席上でシンガポールのリー・シェンロン首相が当時の小泉純一郎総理大臣に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというのは本当ですか」と尋ねられたが、小泉首相は戦後世代なのでこの話を知らなかった。早速東京の文部科学省に照会したが誰も知らなかった。

この教材は昭和12年から昭和22年まで国定教科書である尋常小学校五年生用「小学国語読本巻十」と「初等科国語六」に「稲むらの火」と題され掲載されていた。具体的な年代や場所などの記述は省かれ普遍的な物語として構成されていた。しかし前述のこともあってか平成22年度より再度小学校教科書に取りあげられている。

この物語は、村の高台に住む床屋の五兵衛は、地震の揺れを感じた後、海水が沖合へ退いて行くのを見て津波の来襲があると気付き祭の準備に心を奪われていた村人達に危険を知らせる為、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。火事と見て消火の為に高台に集まった村人達の眼下で津波は猛威を振るった。この五兵衛の機転と犠牲的精神で村人達は皆津波から守られたという話である。

この「稲むらの火」は史実に基づいているものの実際とは異なる部分がある。これは明治29年小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は英語で「A Living God」を著した。西洋と日本の「神」の考え方の違いについての文章で、この中で人並はずれた偉業を行ったことで「生き神様」と慕われている紀州有田の農村の長「濱口五兵衛」の物語を紹介した。小泉八雲は作中にも触れられている明治三陸地震津波の情報を聞き、この作品を書かれたと推測される。但し地震の揺れ方や津波の襲来回数など史実と異なる部分も多い。又「地震から復興を遂げた後、五兵衛が存命中に神社が建てられた」とする点は誤りである。

さて、ここで史実にふりかえってみよう。「稲むらの火」は安政元年江戸時代後期の嘉永7年に発生した南海地震で約32時間前に発生した安政東海地震(東南海地震含む)と共に一連の東海・東南海・南海連動型地震で安政地震、安政大地震とも総称された。前年の黒船来航を期に安政と改元され年表上では安政元年だから安政を冠して呼ばれる。発生は1854年12月24日16時~17時、M8・4~8・5、震度6~7、津波16・1m、死者数千人、初めはゆるゆると次第に強く、やがて激震になったという。史実は前述の安政南海地震の津波が広村に襲来した後、濱口梧陵(物語では五兵衛)は自分の田にあった藁の山に火をつけ安全な高台にある広八神社への避難路を示す明かりとし速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の九割以上を救った。(死者30人)津波から命を救えるかは情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。これをもとに作られた物語が「稲むらの火」だ。

小泉八雲の作品「A Living God」を詠んで感銘をうけた地元湯浅町出身の南部町の小学校教員中村常蔵(明40―平6)は昭和9年に文部省国定国語教科書の教材公募が行われると児童向けに翻訳・再構成し、「燃ゆる稲むら」として応募したこの作品が入選、国語教材としてそのまま採用され昭和62年9月になって国土庁から防災功績表彰を受けられた。又1993年頃アメリカ合衆国コロラド州の小学校では「稲むらの火」を英訳した「The Burning of The Rice Field」が副読本として使われていたこともある。

2011年6月に制定された「津波防災の日」は11月5日となった。これは「稲むらの火」が起った嘉永7年甲寅11月5日庚午の申下刻(七ツ半)1854年新暦で12月24日である。(本文では新暦)

濱口梧陵(文政3年6月15日―明治18年4月21日)は紀伊国広村(現、和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号で字は公輿、諱 は 成則。?油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現ヤマサ?油)当主で7代目儀兵衛を名乗った。災害後は破損した橋を修理するなど復旧に務めた他、当時では最大級の堤防・広村堤防を約四年かけて修造し、この大土木工事は荒廃した被災地からの住民の離散を防ぐとともに将来襲来するであろう津波に備えた防災事業であった。この復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は梧陵が私財を投じたものである。当時としては巨大な堤防建設の際に「住民百世の安堵を図る」との言葉を残していたが、堤防完成から88年後の昭和21年広村を昭和南海地震が襲ったがこの堤防の為に被害を減らすことが出来た。梧陵の活躍を讃え、広村堤防には感恩碑が1933年建立され、広川町では毎年11月「津浪祭」を行い梧陵の遺徳を偲び、災害の記憶と災害への備えを伝えている。

一五九年前の「稲むらの火」を思い出すべきではなかろうか。

 全菓連理事長・岡本楢雄