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信州飯田の半生菓子が元気

小流通菓子製造業者の生きる道

飯田の半生菓子 長野県飯田の半生菓子が元気である。商品が売れているからである。飯田市内は戦後まもなく大火に見舞われ、再開発の際、目抜き通りに林檎の木を植えた、街の周辺にも林檎の木が多い。飯田市は、林檎を育てながら、一方では半生菓子製造業者の集積ができていった。市の復興は決して容易なものではなく、幾多の困難を乗り越えねばならなかった。

 半生業者群も今日にいたるまでには筆舌に尽くし難い苦難があった。現在は2代目世代が経営にあたっているが、親の苦労がわかっているだけに実に堅実な経営者が数多い。

 しかし、なぜ、飯田地域に半生菓子の集積が生まれ、今日の隆盛をみることになったのだろうか。菓子業界の今後の発展を考えるについて、特に、小流通菓子製造業者の生きる道を示しているように思える。四方をアルプスに囲まれ、景勝の地ではあるが、いずれの大都市にも遠く、交通の便は頗る悪い。道路ができた現在でも、名古屋へはバスで2時間掛かる。昔は大変な苦労だったはずである。1950年代に突如としてヒット商品が生まれる。半生菓子「栗しぐれ」である。余程売れたようで、信州の松本、飯田が菓子の一大産地と言われるまでになった。玉石混淆の俄か製造業者は、粗製乱造や過当競争で自滅していった。篩にかけられた半生業者が50社余あり、彼らが以後の「飯田の半生菓子」を形成していく。ここで半生菓子の特徴を述べておきたい。半生菓子の名称は、明治後期、大正はじめにかけて一口物、仲物と呼ばれていたもので、半生菓子の正式名称となったのは1954(昭和29)年の全菓博(京都)からである。小さなサイズで、比較的日持ちがするもの、そして、原則として流通を問屋に依存する商品であること。今で言う流通菓子、お茶菓子、庶民が気軽に日常に食し、楽しむ菓子である。半生菓子は、全国半生菓子協会として纏まり、現在東京、名古屋、飯田、京都、大阪に組合を持ち、鳥取、島根に1社ずつ会員を持っている。飯田以外は、販売が多様化し、商品も依然の範疇に入らない製品も多くなってきた。

 その中で、飯田地域の半生菓子は、先輩たちの作った半生菓子の定義を忠実に守りながらも、現在のニーズに合致させる、いわば半生菓子の優等生的存在になっている。会員数は17社と、数の上では、他地域と同様減少しているが、出荷量としては全国一である。

 業者間の良質の商品にかける情熱、粗製乱造の失敗を肝に銘じた切磋琢磨は称賛に値する。特筆すべきは、地域問屋の存在である。2社の菓子問屋によって、飯田の半生菓子は今日があり、2社の菓子問屋は飯田の菓子があって成り立っている。まさに一蓮托生の関係にある。この2社によって全国に飯田の半生菓子が届けられている。

 17社の内、数社は半生菓子の大手と言われる存在で、後は中堅企業、小企業となっている。大手は自社で半生菓子をミックスし、中堅企業、小企業は、上記の問屋に自社の得意としている最中やミニ羊羹、桃山、栗饅頭などを持ちこみ、問屋がミックスしてフイルム袋入りにする。これがブームとなっている。冒頭の飯田の半生菓子が元気だと言ったのは、実はこのミックス菓子ブームを指している。小さな企業の生きる道はミックス菓子にあり、製造者も菓子問屋も元気になれる。教えられることは多い。

 大阪府菓子工業組合・中島孝夫

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