視点

クラゲの発光研究から(平成22年6月)

ノーベル賞受賞の下村脩先生
その(1)

クラゲの発光追究で二〇〇八年ノーベル化学賞を受賞された下村脩さんは、 一九二八年京都府福知山市のお生まれで、私と同じ年の誕生であり、同年代を過してきたので一入関心をもった。

大きさは一五cm程のオワンクラゲは、傘の縁にある発光器が緑色に光る。下村さんは一九六二年に発光に関わる蛋白質イクオリンと緑色蛍光蛋白質(GFP)の発見を発表。コロンビア大学のマーティン・チャルフィー教授は一九九四年GFPの遺伝子で線虫の神経細胞を光らせたと報告。カリフォルニア大学サンディエゴ校のロジャー・チェン教授はGFPを遺伝子操作して色々な色を作り出し、光度を強めた結果細胞内の蛋白質にGFPをくっつけて目印とし、顕微鏡で観察出来るようになった。今では蛋白質の働きの研究やその異常で起こる病気の解明等に欠かせないものとなったので以上三名が「GFPの発見と開発」の業績でノーベル化学賞を共同受賞されたのだ。

下村さんは授賞式のため、 飛行機でストックホルムに到着したらスウェーデンの外務省や王立科学アカデミーの偉い人が出迎えに来られており、 赤いカーペットの上を税関も入国審査もなく国賓待遇並みで八日間滞在されたが忙しくて受賞者と話をされる機会もなかったようだ。

受賞講演は戦争の終りの話から始められた。 下村さんのお父さんは軍人で満州 (中国東北部) や大阪に引っ越し、 終戦の一年前に長崎の諫早市に疎開し、 そこの中学校へ初めて行かれた日、 クラス全員が大村の海軍航空廠に学徒動員され寄宿生活をしながら働かれた。

一九四五年八月原爆を積んだB29が長崎市街に飛んで行くのを見られた直後、 強烈な光と激しい爆風を浴びられた。 15㎞離れた諫早でのこと、 後に奥さんとなられた方は爆心地から2・5㎞で被爆された。 先生の中学校は被爆者の収容所となり、 大勢の方が亡くなられるのを見られ、 同級生も亡くなられたが、 先生は運がよかったが、 将来何をやろうかなんてとても考える暇はなかった。

大阪在住の時は、 旧制住吉中学で一年生の終了時の成績は三〇二人中三〇〇番でショックだったそうだ。 旧制住吉中学は旧制大阪髙等学校 (現 大阪大学教養学部) へ全国一多く入学することで当時は有名だった。 私も住吉中学へ行こうかとも思ったが、 旧制髙等学校は親元を離れたいと思っていたので、 やめて髙津中学に入学した。

先生は四年で諫早に転校されてからは動員で一日も授業を受けられていないことは、 私も同じだった。 先生は旧制第五髙等学校 (熊本) などを受験されたが全部不合格で二年間浪人生活をされた。 私は幸い四年から旧制姫路髙校へ入学出来た。

先生の家の近くに移転してきた長崎医科大学附属薬学専門部 (現 長崎大学薬学部) に入学され、 卒業後製薬会社へ就職受験されたが、 試験官から 「君は会社にむきませんよ」 と言われてあきらめられた。 長崎大薬学部の安永峻五教授が実験助手に雇って下さった。 四年後に 「よそへ行って勉強したらどうか」 と教授と同郷 (山口県) の名古屋大学の江上不二夫教授 (分子生物学) のところに連れて行って下さったが留守。 もう一人知っているからと同じ名古屋大学で山口県出身の平田義正教授 (有機化学) の研究室に立ち寄ったら、 平田教授から 「いつからでも来ていいよ」 と言っていただいたので天が決めてくれたのかなと平田先生のところへ行くことにされた。

全国菓子工業組合連合会 理事長 岡本楢雄