視点

わが食品業界最高の成功者(平成22年4月)

サントリーの佐治敬三社長さん ― 第四話 ―
ビール業界に進出遂に大手三社に仲間入り

ビールが日本に入ったのは一八七〇年明治三年で、一時は全国各地にビール製造会社が出来た。サントリーの前身寿屋も一九二八年昭和三年横浜にあった日英醸造を買収、一九三〇年に「オラガビール」を発売したが、流通販売に手間がかかることから企業統合に進み、特に一九四三年昭和十八年には物資統制の国策によりビール製造会社は大日本麦酒と麒麟麦酒の二社に統合され、戦後大日本麦酒が日本麦酒と朝日麦酒に分かれ、後に前者はサッポロビール、後者は朝日ビールとなり三社だけの典型的な寡占体制が出来上っていた。商品は各社とも一種類、卸業者はすべて三社の特約店(東京、横浜地区を除く)で、それぞれ決った会社のビールだけを取扱っていた。こうした状況下、日本経済の復興が進むと「ビールの分野にも三社以外の新規参入を認めてもらう」という意見が広まり、一九五七年宝酒造(焼酎の最大手)が名乗りをあげ、タカラビールも三社寡占体制の流通機構や市場イメージに阻まれ大苦戦、販売量は伸びなかった。

このような中一九六〇年寿屋の二代目経営者佐治敬三さんもビール事業への進出を決断した。当時社長の実父鳥井信治郎さんは八十一歳で静養中だったが、北条誠作の芝居「大阪の鼻」では息子敬三さんの決断に、「わしは何も言わん、やってみなはれ」と答えたということになっている。
父鳥井信治郎さんが亡くなった一年二ヶ月後の一九六三年四月にサントリービールが発売された。
先行の宝酒造は発売から十年後の一九六七年には二つの工場を売却して完全撤退した。

幸い佐治さんは当時のアサヒビール社長で大阪財界の大物だった山本爲三郎さんの知己としてアサヒの流通ルートにサントリービールを流してもらうことに成功、もっともこれはサントリービールをアサヒビールの一銘柄として販売するというもので、工場の増設や価格に関してもアサヒビールの承諾がいるという厳しい条件付だった。

佐治社長は、ビール技術者やすでに作家として活動を始めていた開高健さんらと共に、二度ヨーロッパにビール研究の旅をした結果既成三社のドイツ風ビールとは一味違うデンマーク風ビールを選んだ。
「十人に一人くらいは好む人もいるだろう」として発売したが色が淡いとか、味も薄いとか、ウイスキーの酵母と同じのを使っているとか、いろいろ批判が多く出て、販売は思わしくなかったが、その中で生ビールだけは売れた。そこで、生ビールを中心に宣伝販売をかけ、前述の宣伝部一丸となって力を入れ、純生をはじめ、一応ビール業界での成功となったのであるが、並大抵の苦労ではなかったようだった。

サントリーさんは酒部門以外に美術館、音楽ホール等にも力を入れ、立派な建物を建築され、世界的有名な美術品を集められ、又世界的な音楽家を招いてコンサートを開催されるなど日本の文化に食文化に限らず汎く貢献された。
一九九九年十一月三日、文化の日に満八十歳でご逝去になり、同日付で、正三位旭日大綬章(元勲一等)を追贈されたことは、わが日本の食品業界に日本食文化を開花させ汎く日本文化への貢献も認められてのことでもあろう。心からご冥福をお祈りする。

全国菓子工業組合連合会 理事長 岡本楢雄