視点

忘れられた日本人(平成21年12月)

― 今なぜ宮本常一なのか ―

宮本常一が注目されている。日中戦争が泥沼化する昭和10年代半ば以降、日本全国をくまなく踏破、辺陬の地の人々の暮らしと伝承を追い求める。その膨大な事績は広く知られているところであるが、今なぜ宮本常一なのか、立ち止まって考えてみることも必要なのかも知れない。

近所に夜遅くまで仕事をする農家がいた。そのことを知っていたもう一軒の農家では季節がくると何とは無しに家の前の田圃に明かりが届くよう夜の8、9時頃まで火を点けておいたという。しかし、そのことを相手には一切知らせていなかったため、好意を受けていた農家も長らく単に夜の遅い家だなという位にしか思っていなかった。そのミスマッチが宮本の主宰した古老の座談会で初めて明らかになったのだという。ここにも見失われた共生社会の原点を私たちに知らせてくれる確かなメッセージがあるように思う。昭和30年代半ばに発表された宮本の代表作『忘れられた日本人』(岩波文庫)の中にある名倉談義の一コマである。

数年前その舞台となった奥三河の名倉村(現設楽町)を訪れる機会があった。織田信長が3千丁の鉄砲により武田騎馬軍団を壊走させた長篠の古戦場から豊川の支流を北に遡ると伊那街道の宿場町田口に着く。そこから更に急峻な坂道を上っていくと標高700メートルの高原に出る。稲刈りが終わった田圃から立ち上る水蒸気と山あいから射す朝日が交錯する中に集落がいくつか見える。思わず「桃源郷」の三文字が浮かんだほどの風景であった。

峠を集落に向って少し下ったところに「万歳峠」がある。日清戦争の時に村の兵隊を見送るのに手を振って別れを惜しむ時間を少しでも長くしようということから設けられたという。日露戦争のときも、太平洋戦争のときにもその場所から村の若者を見送ったものだと古老たちが淡々と語る。そのくだりを思い起こし一瞬にして現実に引き戻されたときの肌のざわめきを忘れることができない。

山口県周防大島の寒村に生れた宮本は大阪に出て苦学する。そして、同地での小学校教員時代にわが国の産業資本の育ての親と称される渋沢栄一の孫、敬三の知遇を得る。渋沢敬三は戦中、戦後に日銀総裁、大蔵大臣を務めさせられることになる財界人であったが、同時に民俗学に大きな関心を寄せ、少壮研究者たちへの指導、援助を惜しまなかった。民俗学の指導者としてゆるぎない地位を築いていた柳田国男とは一線を画し、農山漁村にこそわが国の基盤があり人々の暮らしの中に国の将来が託される知恵が潜んでいるとの信念をもっていた(佐野眞一『旅する巨人』)。そうした渋沢を生涯の師として仰ぎ、その食客となって日本列島の各地を歩く。

進歩の中で失われていきつつあるもの、その中に人間にとってかけがいのない大事なものがある、として上梓されたのが先の『忘れられた日本人』。明治、大正、昭和の時代を生き抜いてきた古老たちが主人公となっていて、「村の寄りあい」、「土佐源氏」、「世間師」、「私の祖父」など14編が収められている。すべてが物語としても瑞々しく、貧しさ、不幸よりも人々とのつながり、自然風土の温もりの中に過去を、そして今をごく自然に、ときにはコミカルに肯定してみせる宮本の真骨頂が凝縮して伝えられる。

東北の篤農家を訪ねその家の高齢の祖父を交えて村の生活について話が深夜にまで及んだときのコメントがある。『そこにある生活の一つ一つは西洋からきた学問や思想の影響を受けず、また武家的な儒教道徳のにおいの少ない、さらにそれ以前の考え方によってたてられたもののようであった。』そして、『この人たちの生活に秩序をあたえているものは、村の中の、また家の中の人と人との結びつきを大切にすることであり、目に見えぬ神を裏切らぬことであった。』と結ばれる。つい最近宮本自らの手になる戦後のスナップ写真集が出版された(毎日新聞社『宮本常一が撮った昭和の情景』)。変貌のさ中にある村、街の人々の笑顔が素晴らしい。

「視点」1月は休みです。

全国菓子工業組合連合会 専務 矢部正行