視点

トリスバー・サントリーバーを流行らせる(平成21年11月)

ラジオの民間放送がはじまった一九五一年昭和二十六年、 社内の反対の声を押しきって敬三さんは、漫才や落語が主流だった時代に、クラシック音楽に目を向け内外の演奏家達を集めたコンサートを三十分枠で放送、「百万人の音楽」はラジオ東京現在のTBSラジオで延べ五百二十回にわたって放送された人気番組に、一九五三年昭和二十八年テレビの民間放送がはじまると「今日と明日のお天気」日本テレビを提供、一九五九年昭和三十四年からはじまった一時間番組の「ローハイド」でクリント・イーストウッドらが主演する西部劇を一社提供したことは注目に価する。この間に全国に「トリスバー」「サントリーバー」が猛烈に拡がった。

この始まりは統制解除の直後に寄せられた東京池袋の久間瀬巳之助さんの提案「私はスタンドバーをやりたい。しかもトリスハイボール一本、おつまみも塩まめだけ、均一価格七十円」という画期的なものでしたが敬三さんは賛成、久間瀬さんの夢を実現しただけはでなく、更にコンセプトを練り上げ全国展開を進め最盛期には三万五千軒ものトリスやサントリーの名を冠したスタンドバーが出現した。

「トリスバー」 のコンセプト基本概念は、「ちょっぴり洋風」という点、まず店の造り狭い店内に高いカウンターがあり、高い腰掛けが並ぶ、いわゆる「止まり木」風の客席で、お客と店員が向かい合う格好になる。店員は二人か三人多くても五人まで、客席も「止まり木」の他には二、三人用の小さなテーブル席が三つ四つあるだけ、飾り付けはカウンターの背後に並んだ洋酒の瓶、薄暗いダウンライトの照明といった具合だ。このような造りは、今までの日本の酒類飲食店にはなかった。当時の若者、とりわけ急増しつつあった都市サラリーマンは「洋風」の新文化を感じた。イギリスのタバーンやフランスのブラセリーの広い店のカウンター部分を狭い部屋に押し込んだ形で一九六〇~七〇年代の日本人サラリーマンが西洋風に憧れていたのとぴったり、サントリーの新聞やテレビ広告がそんな感覚を高めた。

第二の特色は、トリスバー、サントリーバーの多くが、ターミナルの駅前通りや裏街に集中、通勤者が帰り道に立ち寄り易くなっていた。この立地は六〇~七〇年代に急増したサラリーマンを引き付けた。つまり、サントリー文化は戦後のサラリーマン文化だった。戦後の日本には、独特の社会構造があった。

一九六〇年代前半、敬三さんが寿屋、サントリーの社長になられる頃、日本経済は急成長、都市の企業は大量の労働力を必要としていた。これに応じて地方の農山村から学校を卒業したばかりの若者が大量に都会に出て、企業や官公庁に勤め、家族と別れ故郷を離れ都会に住むサラリーマンが激増した。これらの人達は、家族付き合いも近所付き合いもなく、職場の同僚や取引相手など職場の縁でつながる社会で戦後日本人の圧倒的多数を占めるようになった。サラリーマンは職場の縁で結ばれた職縁社会の住人だった。

そんなサラリーマンが息抜きに立ち寄るのがターミナルや駅付近のトリスバー、サントリーバーだ。そこに職場の同僚が二、三人で腰掛けて上司や取引先の噂話をしたり、一人止まり木で店員に話しかける。慣れた店の顔見知りの店員、マスターやホステスはそれなりに話を聞いて相槌をうってくれる。そこには自分の名を記したウイスキーの瓶があり、ちょっと存在感をもつこともできた。云わばトリスバーやサントリーバーは職縁社会を裏面から支える装置だった。

第三の特色は「手軽さ」だ。ウイスキーというお酒は燗をする必要もなく、肴もピーナツやチーズなど手軽な乾き物で十分だったのでウイスキーを主とする飲食店には料理をする大きな施設や技能がいらない。狭い店で小資本で誰でも経営出来る。それだけに常連客は顔見知り、多くのサラリーマンは職場以外での心の触れ合いをこんなところに見出した。その上ウイスキーはアルコール度が高く、変質しにくいお酒で、今日の残りを明日或いは来週飲むことも出来、これがボトルキープという独特の営業形態を可能にした。

敬三さんはウイスキーにそんな社会現象にふさわしい「文化」を付け加えた。その一つはウイスキーの瓶のデザインにも配慮した。そのはじまりは、クリスタル感のある「角瓶」、黒くて存在感のある「オールド(だるま)」だ。ライバルの日本酒やビールが永く容器のデザインに無頓着だったのとは対照的だった。

ボトルをキープすると、小売店で購入するよりはずっと高いが何度にも分けて飲めるので結果としては安上がりになる。実はこの背景にはもう一つ戦後の日本が進めていた社会経済形態があった。規格大量生産だ。これがトリスバー、サントリーバーを流行させた第四の要素だ。

2月号に続く。

全国菓子工業組合連合会 理事長 岡本楢雄