視点

わが食品業界最高の成功者(平成21年9月)

サントリーの佐治敬三社長さん
赤玉ポートワインの寿屋がウイスキーへ
佐治敬三専務頑張る

お酒を一滴も飲めない私がこの度ウイスキーのこと、サントリーの佐治敬三さんのことを書くのはどうかと一応ためらってみたが、佐治さんからお聞きしていたこと、平成十一年十一月三日ご逝去になって十年、お酒好きな皆さんにも少し知ってもらおうと、筆をとった次第です。

佐治敬三さんは、一九一九年大正八年十一月一日、鳥井信治郎さん、クニご夫妻の次男坊として大阪で誕生、お父さんの鳥井信次郎さんは、当初大阪船場道修町(どうしょうまち)の薬種業の小西儀助商店に勤められていた。当時はぶどう酒も薬屋で扱っていたのだ。信治郎さんがお酒の道に入られたのもこれがきっかけだったようだ。

敬三さんは一九一九年次男として、第一次世界大戦の戦勝ブームで好景気、当主信治郎さんはすでに寿屋を設立され、その社長鳥井家は裕福であった。その頃大阪の商家では市内に店をかまえ、郊外に広い住宅を建てるのが流行していた。鳥井家も阪急電鉄宝塚線の雲雀丘花屋敷に洋館を含む邸宅があり、敬三さんもそこで育てられた。

小学校は大阪府立師範学校小学校、後は旧制の中学髙等学校一貫の七年制の旧制浪速髙校にその間、母方の佐治家を継ぐことになり、養子縁組みで佐治姓に変られたが、生活は全く変わらずご両親、ご兄弟と雲雀丘で暮しておられた。一九四〇年昭和十五年浪速髙校理科乙類(ドイツ語系)を卒業、大阪帝国大学(現大阪大学)理学部に進学されたが、この年敬三さんのお兄さん鳥井吉太郎さんが三十一歳の若さで急死、佐治姓になられた敬三さんが実質的な長男としてお父さんの事業を継ぐことになられた。敬三さんが大学に入られた翌年太平洋戦争がはじまり、厳しさが増し二年半の短縮で卒業、海軍を志願して技術将校に、内地勤務だったので終戦と共に大阪へ帰り、父上経営の寿屋現在のサントリーに入社された。

寿屋も大きな戦災をうけたが、幸い主力の山崎工場は無事だったので、貴重な原酒や樽材が残ったことが後の発展に役立ったのだ。
化学科卒業の敬三さんは、科学の面白さを主婦にもわかるように伝えたいと雑誌「ホームサイエンス」を発刊されたが時期尚早か赤字続きで廃刊したが後のPR誌「洋酒天国」創刊につながった。大学研究室の小竹無二雄教授が教えてくれたドイツ語の「エトヴァス・ノイエス」(何か新しいこと)この言葉は敬三さんの終生のテーマ「日々新しきことを探し求めて生きること」となり生涯支え続けた。

統制解除、一九五〇年からウイスキーの自由競争が始まった。そこで寿屋が力を入れたのは工場の拡大と広告宣伝だ。当時はウイスキーも沢山あったが、銀行融資に恵まれ、大分県や神奈川県にも生産施設を拡げた。
二代目専務佐治敬三さんが特に力を入れたのが広告宣伝だった。寿屋は赤玉ポートワイン時代から宣伝には力を入れてきたが、戦後の一九五一年昭和二十六年の時点では、宣伝部にはイラストレーターとコピーライターが一人ずついるだけで人材を集めて立て直しようやく活気づいてきた世の中に商品アピールすることが急務だった。

敬三さんはまず銀行員だった山崎隆夫さんを三和銀行から宣伝部長に、彼は神戸髙商(現神戸大学)卒の銀行員であり国画会所属の画家でもあった。この山崎さんを慕ってアートディレクターの坂根進さん、イラストレーターの柳原良平さん、又敬三さんとの縁で無名の作家だった開高健さん(後に芥川賞受賞)もくる。こうしたひとクセある人材から、昭和三十年代に一世を風靡した「洋酒天国」の雑誌や「トリスおじさん」のイラストが世に送り出され宣伝部は大いに賑わいを見せはじめた。

「専務、これからは東京でっせ、宣伝部を東京へ移しまへんか」と開高さんの誘いで、日本橋にあった東京支社に事務所を移したのが一九五六年昭和三十一年で、出版社で編集をしていた山口瞳さん(後に直木賞受賞)も加わり、「人間らしくやりたいナ」「トリスを飲んでHawaiiへ行こう―」はともに一九六一年昭和三十六年につくられた広告ですが単に商品の紹介にとどまらず情感や夢や欲望に訴えかける。今でこそ当り前だが、当日は珍しく、ウイスキーは徐々に身近なお酒として人に意識されるようになっていった。

全国菓子工業組合連合会 理事長 岡本楢雄