岐阜県菓子店

2012.10.15

飛騨菓子匠音羽屋

時代を切り抜ける三代目

昭和時代の音羽屋 現在の飛騨菓子匠音羽屋の礎は、岐阜市にあった米八製菓所に始まります。私の祖々々父にあたる廣瀬八五郎が、明治3年に、家業の米屋の傍ら菓子作りを始めたのが、いつの頃からかそちらが本業になってしまいました。

 昭和3年に、祖父の木村弘が、はるばる飛騨高山よりやって来て丁稚となりました。少年から青年時代をそこで修行した祖父は、めでたくそこの長女と結婚し、昭和12年に独立して高山に戻り、音羽屋本舗を立ち上げました。米八製菓所は、その後程なく廃業したので、実質その後を引き継ぐ形になりました。

 その頃の売り先は、地元の小さい菓子店や、事業所の購買部みたいな所がほとんどでしたが、商売も少しずつ大きくなって行きました。その後、太平洋戦争により一時休業しましたが、終戦後すぐに事業を再開して、昭和27年には法人として有限会社音羽屋を設立し、新しい第一歩を踏み出しました。

現在の音羽屋 父哲明は昭和16年に生まれました。少年期は特に絵画の才能に優れ、美術部に入って、将来は美術大学を目指しておりましたが、両親の病気のためにその道を断念し、昭和35年高校卒業と同時に、大阪の菓子メーカーに入社しました。そこで4年間下働きをしながら菓子作りや営業を覚え、更に母と出会い、昭和39年に高山に戻って結婚し、家業を継ぎました。

 その後しばらくして、小さな飴玉を長いプラ棒の先っぽにくっつけた『フラフラ』という商品を考え、それが大当りし、創業以来のヒット商品となりました。続いて、ペロペロキャンディの製造も始めましたが、これも順調に売れて、TDLの商品として販売されるようになってからは、製造に一層拍車がかかりました。その間工場を郊外に移転し、順調に業績を伸ばして行きましたが、いつまでも人気は続かないとの思いから、次なる商品の開発にとりかかり、できあがったのが、飛騨に伝わる州浜や、落雁をモチーフにしたお茶菓子『飛騨のかたりべ』でした。当時、国鉄のディスカバージャパンに始まる観光ブームにのって、多くの観光客の皆さんに喜ばれ、現在も当社の代表商品として、発売当時と変わらぬ姿で販売され続けています。また、同時期に旧工場を店舗に改装して直営売店も開店しました。

祖父の木村弘さん(左)、父の哲郎さん(右) 一方、音羽屋として三代目となる私は、大学卒業後、東京の菓子問屋で約四年半勉強した後、帰郷しましたが、当時は丁度バブルがはじけた直後で、仕事も次第に厳しくなって来ました。そこで、21世紀を迎えるにあたり、当社もそれまでの製造卸主体のやり方から直売中心に、そしてキャンディーから『飛騨だがし』を核とした商品群へと、大きく路線変更しました。以後現在まで、何とか時代を切り抜けて行っているのも、『飛騨だがし』という宝物を残してくれた祖父と父のおかげと、いつも感謝している次第です。その祖父と父も平成14年と平成18年に相次いで亡くなり、一時は、社内も灯が消えたように寂しくなりましたが、現在は、先人が残してくれた大事な菓子の数々を守り、後世に伝える、という使命に燃えるべく、従業員と共に一丸となって日々頑張っています。

 岐阜県菓子工業組合・木村哲也