視点

リスボンの通り雨(平成24年5月)

―大航海時代を拓いた港町―

スイスのジュネーブ空港からポルトガルの首都リスボンに向う。フランス国境のピレネー山脈を越えると、オリーブ畑が点在する赤茶けた高原が広がる。イベリア半島である。スペイン中央部の古都トレドの城壁を洗っていたテージョ川が、山あいを下って大西洋に向かっていくのが見えてくる。高度が下がり、初夏の山々の緑が鮮やかとなる。港町のにおいがしてくる。

リスボンは丘陵が迫り平地がほとんどない。テージョ川河口にローマ時代に築かれたサン・ジョルジュ城塞の旧式大砲が大西洋に向かって砲門を揃えている。ポルトガルの国土面積は日本の4分の1。中世に北アフリカから侵入したイスラム勢力に支配されるが、15世紀後半にスペインとともに国土を回復、大航海時代の先駆者となり世界史上に登場する。日本や中国など東アジアと接触する初めてのヨーロッパ人となる。

1543年(天正12年)にポルトガル人が種子島に鉄砲を伝える。間もなく、イエズス会の宣教師F・ザビエルが鹿児島に上陸。南蛮貿易が始まり、西洋の文物が渡来する。信長に庇護された宣教師R・フロイスの書簡に出てくる砂糖菓子もその一つ。太平洋戦争直後、配給の金平糖をお菓子とは知らず転がして遊んでいたという自らのエピソードが思い起こされる。サン・ジョルジュ城を下った旧市街地アルファマ地区の路地の陽が傾く。バールが店を開ける。近所の常連が集まってくる。七輪の焼き魚が煙を上げ、ポートワインの樽の栓が抜かれる。

翌日、通り雨が小さな幸運を運んでくれた。海岸沿いを散策していて夕立に遭う。ずぶ濡れになるところを若者の車に助けてもらう。親切な青年は、リスボンから1000㎞の大西洋上に浮かぶマデイラ島の生まれ、海軍通信学校に通う生徒であった。幼い頃に遠戚の遠洋漁業の乗組員から同島に寄港した時の話をしてもらったことがあり、会話が弾む。「マデイラ」とはポルトガル語で木を意味する。同島が未踏の海原に挑戦する探検家たちの前線基地であった時代、イタリア人C・コロンブスは同島の貴族の娘と結婚、リスボンで大西洋経由のインド航海計画を練っていた時期があった。ポルトガル王に援助を求めたがうまくいかず、代わってスペイン王室がスポンサーとなって、1492年にアメリカ新大陸が発見される(増田義郎「コロンブス」)。夜の魚料理レストラン。伝統の魚煮込み料理とマデイラ諸島を語る青年の手ぶり身ぶりに、3本マストのカルヴェラ船を懸命に操舵し波濤の飛沫を浴びながら未知の世界に挑んでいった探検家たちのロマンが甦ってくる。

ジェロニモス修道院。ヴァスコ・ダ・ガマによるアフリカ経由のインド航路の開拓とエンリケ航海王子の偉業を称えて、1502年にエマヌエル1世によって着工される。香辛料貿易による莫大な利益によって完成される。夕日に映え黄金色に輝く同修道院は、荘厳としかいいようのない美しさであった。中庭に面した回廊に並ぶ王妃などの色褪せた塑像がかつての栄光を伝えてくれる。もう一つ、リスボン地震の記憶、カルモ修道院を見落とすわけにはいかない。ゴシック装飾のファサード・正面を入ると、本堂の石造りの屋根が崩落したままになっていて、壁面と天井のアーチだけが残る。壁面に伸びるピンクのバラが青空の片雲と重なり見事なモニュメントとなっていた。

1755年11月にリスボンを突然大地震が襲う。震源はイベリア半島沖合の海底、マグニチュード9・0と推定されている。建物の倒壊と火災、押し寄せる津波によって9万人が死亡。惨事はヨーロッパ社会に大きな衝撃を与える。ヴォルテール、ルソーなどの啓蒙思想に影響を及ぼし、安逸、楽観主義を戒め自然な生活、自然科学の真摯な追求を促す契機となったといわれている。

ポルトガルの宰相ポンバルは人命救助と治安回復の陣頭に立つ一方で、建築家、技師を招聘し耐震建築の研究を始める。パリなどをモデルにした耐震都市の建設プランをいち早く国の内外に提示する。そうした果断な行動力がヨーロッパで最初となる各国による協調支援につながっていったという(D・バーミンガム「ポルトガルの歴史」)。ポンバル侯爵の銅像が見下ろす近代的なショッピング街、リベルダーデ通りは活気に満ちていた。大友宗麟などキリシタン大名が派遣した4人の天正遣欧少年使節の一行がヨーロッパの地を初めて踏み、リスボン近郊の山あいをシントラ王宮に向って歩いていくのが見える。

 全菓連専務・矢部正行