視点

希望をもって、理想を失はず頑張ろう(平成23年3月)

―東大学徒出陣帰還の東大総長訓辞より―

 日本は昭和十二年(一九三七年)以来日中戦争(支那事変)続いて昭和十六年(一九四一年)からは米国・英国など連合国との太平洋戦争(大東亜戦争)を続け、特にアジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や昭和十七年(一九四二年)以降の戦局悪化で戦死者が増加したため、次第に兵力不足が顕著になった。

 従来は兵役法の規定で旧制大学・旧制高等学校・旧制専門学校等の学生は二十六歳まで徴兵が猶予されていた。しかし一九四一年十月大学・専門学校等の修業年限を三ヶ月短縮させ同年の卒業生を対象に十二月臨時徴兵検査を実施し合格者を翌一九四二年二月に入隊させ、同年更に旧制大学予科と旧制高等学校も修業年限を六ヶ月短縮して九月卒業、十月入隊の措置をとった。更に戦局悪化により下級将校の不足も顕著になったので翌一九四三年十月二日、当時の東條内閣は在学徴兵延期臨時特例を公布し、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃し、十月と十一月に徴兵検査を実施し開放性結核患者を除く丙種合格者までを全員十二月に入隊させた。

 この第一回学徒兵入隊を前に一九四三年十月二十一日全国を代表して東京明治神宮外苑競技場で文部省報国団本部主催の出陣学徒壮行会が挙行された。

 当日は秋の激しい雨の中、観客席には引き続き徴兵猶予された理工系学生、旧制中学校生徒、女子学生など見守る多くの人々の前で東京都、千葉県、埼玉県の各大学・専門学校から召集された出陣学生の陸軍分列行進曲の伴奏で東京帝国大学を先頭に隊列行進、「海ゆかば」の斉唱、宮城(皇居)遙拝、岡部文部大臣による開戦詔書の奉読、東條首相の「諸君は只今よりペンと筆を投げ捨てゝ戦場に赴く」との訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋さんの「生等(せいら)もとより生還を期せず」という答辞が行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終った。今思えば悲愴な一劇であった。

 学生は徴兵検査をうけ、十二月に陸軍又は海軍に入隊して各地の戦場へと出征していった。入営時に幹部候補生試験などをうけ将来将校・下士官として最前線に出征した者が多かったが、戦況が悪化するなかで、玉砕や沈没などによる全滅もあったり、激戦地に配備されたり、慢性化した食糧不足や補給不足から栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。又それまで前線で敵と戦ってきた古参兵は、戦争被害が殆ど無かった内地から学歴だけを理由に自分の上官として着任した学徒兵に対し反感をもった。又学生も学の無い上官への不満も隠さなかった。

 一九四四年末から一九四五年(昭和二十年)八月十五日の敗戦にかけて、戦局が悪化してくると志願や事実上の強制によって特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れた。これらの学徒出陣の意義は大きく、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的な出来事となった。

 広島・長崎に原爆が投下されたことによってポツダム宣言を受諾して終戦敗戦となった。先の学徒出陣で出征し、戦争から帰還してきた東京帝国大学学生の歓迎の辞で、当時の東京帝国大学南原繁総長は「希望をもて、理想を見失うな」と呼びかけ、新しい日本の建設を訴えられた。

 この訓辞をうけた東大生が戦後の日本の各界で指導者となり、日本の復興が見事に完成した。一時はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国にまでのしあがり、ドイツのゲルマン民族と並ぶ大和民族の優秀さを世界に示したのであった。

 江橋さんは生還後東京大学教育学部教授をへて鹿屋体育大学学長になられた。

 わが菓子業界もこの南原東大総長の言葉通り未来に希望をもち、理想を見失うことなく懸命に努力すれば、明るい将来像が浮上すること間違いないと確信する。さあ、みんなでがんばりましょう。

 全菓連理事長・岡本楢雄