視点

日本その日その日(平成23年2月)

―E・S・モースの記憶―

 エドワード・S・モースの「日本その日その日」は、明治の初めに米国からやってきた動物学者による日本紀行。科学者らしい観察力と感性によって130年前の日本の原風景を見事に活写。貧しくはあるが礼儀正しく親切で、かつ活動的な人々の暮らしを克明に伝えてくれる。あたかもデフレに苦しみ内向きな私たちへのエール(どうした日本、頑張れ)が如きといってもよい。

 モースが初めて日本の地を踏むのは1877年(明治10年)。貝類の標本採集のために私費で来日する。翌年に政府に請われ東京大学のお抱え教師となる。宣教師が大半を占める外国人教師からの非難も意に介さずC・ダーウィンの「種の起源」を日本で初めて講ずるなど後進の育成に情熱を注ぐ。大森貝塚の発見者としても知られる。江ノ島に臨海実験所を設け漁師の家に仮寓していたときの話が面白い。『先日の朝、私は窓の下にいる犬に石をぶっつけた。犬は自分の横を過ぎてゆく石を見た丈で恐怖の念は示さなかった。そこでもう一つ石を投げると今度は脚の間を抜けたが、それでも犬は只不思議そうに石を見る丈で平気な顔をしていた』。本来なら犬が怒って吠え立てるはずと自国の下町の情景と重ね合わせて感心する。

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 モースの前半生は必ずしも順調とはいえない。高校を幾つか入退学。苦学し貝類の研究で頭角を現す。大学卒の学歴がないままに31歳でボードン大学教授に就任、名門ハーヴァード大学の講師を兼任する。来日は39歳の時であった。標本採集のため全国各地を訪れる。その時の膨大なメモから「その日その日」は生まれるが、それが実際に日の目を見るのは晩年になってからの友人の手紙による。『君ほどの人間が下等動物の研究に大切な時間を浪費しているのは気にくわぬ。君と僕が40年前に親しく知っていた日本という有機体は消滅しつつあるタイプ。その目撃者であることを忘れないでくれ。貝類の研究は誰かに任せればよい』であった。

 「その日その日」(東洋文庫、1970年)はやや大部ではあるが、玄人はだしのスケッチだけでも楽しい。荷物を運搬する牛車の写生図。牛の背中を覆う筵の日除けは他の国では決して出会うことができないとして人間と動物との共生の有り様を描く。『田舎の旅の楽しみ、それは道路に添う美しい生垣、戸口の前の綺麗に掃かれた歩道、家の内にある物がすべてが小ざっぱりとしていることであった』、『人々の芸術的性情は些細なことにも示されている。子供が誤って障子に穴をあけたとすると、桜の花の形に切った紙を貼る』は何とも懐かしい。子供たちが身分に差別なく寺子屋に学び、溌剌と遊ぶ笑顔を見て『世界の中で子供たちがこれほど大事にされている国は他にあるのだろうか』と記す。

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 東西冷戦終結後に世界を震撼させた米国の9・11テロ事件を予言していたとしてS・P・ハンティントン教授が注目を集める。同教授は、西洋文明の危機に警鐘を鳴らしつつイスラム文明、中国文明などと並べて世界の8つの文明の一つに「日本文明」の存在をあげる(「文明の衝突」、1993年)。そこには日本古来の歴史に通ずる固有の風土が、国際社会の中で文明としての普遍性、共感を獲得し新たな世界秩序に向けて存在力を高めていくことへの期待が込められている。にもかかわらず今、経済ばかりでなく政治的にも理解に苦しむ混迷が続いているのは何故だろうか。尖閣、北方領土問題が浮上する。だからこそ、先のモースの旧友の言は当たらないとして「その日その日」が光芒を放つのかも知れない。

 大隈重信を訪ね、見せてもらった陶器を全て貰ってくるという逸話がある。大隈は後日、それらの陶器は大事にしていて手放す気はさらさらなかったが、話をしているうちに、あの人にあげたい気持ちになってしまったと語る。モースの人となりが浮かんでくる。ちなみに、日本美術の発掘・紹介に努め、岡倉天心とともに東京美術学校(現東京藝術大学)の設立に尽力したE・F・フェノロサの来日もモースの世話による。モースは帰国後、生物学会等の要職を歴任し多彩な人脈を築いていくが、生涯を通じて日本文化を世界に紹介してくれた功績は計り知れない。文明開化の足音を背中に聞きながら、それもあるかと隣人との絆を大切にしつつ逞しく時代の変化に立ち向かう。そうした市井の人々の気概、活力が「その日その日」から伝わってくる。

全菓連専務・矢部正行