東京都菓子店

2022.03.15

三代目に贈る言葉

― 歴史を振り返って ―

キクスイドーのポテトチップ 貴方も私も、生まれた時から工場の喧騒の中で育った。コロナ禍で、会社承継の思いが強くなったことは理解できる。これから、果敢に変化していかなければならない。

 初代は、群馬県下仁田の酪農農家の次男だ。蒟蒻、下仁田葱、養蚕、製糸機、機織機に囲まれて育った。冬は雪が積もることはないが、上州のからっ風が吹き、蒟蒻を薄切りにし軒に干す風景がこの地区の冬の原風景であった。

 日暮里で蒟蒻屋をやっていた叔父は、戦争が激しくなると故郷に戻り、いも羊羹などの製造販売を始めた。父たちは、牛乳の集荷業者が高崎方面に向かうトラックに注目し、牛乳の集荷時に同乗、出来立てのいも羊羹を携え、高崎で売り歩き、大変よく売れた。

 東京が落ち着いてきた頃、出て来た。板橋の瓦せんべい屋で技術を磨き、三田で独立、品川に工場を建てた。

菊水堂 岩井社長 ポテトチップとの出会いは、1960年頃、じゃがいもを薄く切り、油で揚げたものがうまいらしいと旅館のふすま越しに聞いたことに始まる。下仁田での経験から、蒟蒻を薄切りするスライサーでカットし、油で揚げ、砂糖をかけるなど試作を開始した。そして、1963年、足立区に引越、野菜用スライサー、水槽、脱水機、かりんとう用丸釜を仕入れ、1964年6月、ポテトチップの販売を開始した。1968年、ポテトチップの大量生産方法を研究するため、米国西海岸へ8ミリカメラを持参し、フライ技術の撮影に成功した。この時見た同形式のフライヤーを1975年10月導入することに成功し、現在まで使用し続けている。

 ポテトチップの販売では、食品問屋、珍味問屋を攻めた。それは、牛乳集荷相乗りの経験から、重い食材と軽いポテトチップの組合せ、容量の少ない珍味と容量の大きいポテトチップの組合せだ。当時の素朴な包材は、味が変わりやすく、ルート販売に徹した。

 1975年7月沖縄国際海洋博覧会が開催された。ここで、沖縄の塩シママースに出会った。いろいろな味付けを試行錯誤したが、ポテトチップには、じゃがいもと沖縄の塩シママースだけでいいのではないかとの結論となった。それ以来、菊水堂のポテトチップ(しお)は、「じゃがいも、植物油、塩」となっている。

 袋のデザインは、販売当初のデザインである楕円形のじゃがいもとポテトチップ片をモチーフとしたものを今も使用している。

 Windows95が販売された年、これからはネット利用のゲリラ戦を戦うと宣言し、1996年から通信販売を開始した。ゆうパックの値上がりで一時撤退するも、「できたてポテトチップ」で再挑戦をし、鮮度重視のルート販売をヤマト宅急便の翌日配達に変え、製造日当日出荷、翌日着の最短での販売に力点を置いている。

 来年で菊水堂は創業70年となる。これから30年後の100年に向けて進むことにはなる。多くの失敗事例は書いていないが、多くの開発商品を廃番にし、多くのお客様の要望にもお応えできてはいない。生き残りをかけ、「破壊と再構築」の決断が迫っている。

 東京都菓子工業組合常務理事・岩井菊之(有限会社菊水堂二代目代表取締役)