各地の菓子店探訪
千葉県菓子店の投稿

新店舗・オープン 融資・ものづくり補助金活用

菓子屋こそが地方活性化の起爆剤に

盛栄堂 大正3年創業、曾祖父の代から続く私のお店は自分で4代目。今まで営んできた店舗は駐車場が狭く土地は親戚からの借地、お店の移転は3代目である父の代からの「悲願」でした。父の時代にも移転を計画していたらしいが様々な理由により断念したそうである。私が修行から戻り家業を継いだ後も、なかなか移転まで踏み切るきっかけを失い、10年程の時間が経ってしまった。

 その間、私も結婚し3人の子宝にも恵まれた。3人目でついに待望の男の子、もしかしたらこの子がうちのお店を継ぐ5代目になるかもしれない。この子が継ぎたいと思えるお店を造ろう。こうして一念発起し、お店の移転に取り掛かった。

 移転に伴い、最初に取り組んだことは「資金の確保」、顧問税理士に『千葉県の最大手銀行に融資を断られるような計画なら断念した方がよい』と言われ、地域の人口推移、観光客の増減、損益分岐点を計算するなど移転後の5年分の経営計画書を作成し、銀行にプレゼンした。その甲斐もあって無事に融資を受けることができた。そのときに作成した経営計画書は同時進行で設備投資用に活用した「ものづくり補助金」を申請する際にも役に立った。

 設計士との打ち合せはほぼ毎週のように行い、四角いおうちは嫌だ。何かのお店だと一発で分かるような特殊な形にした、と計士と相談していく中で、うちの店の看板商品は「さざえ最中」であり会津若松にある「さざえ堂」の形が5角形、そして私と妻、子供が3人でうちの家族構成も「5人」、このことにヒントを得て「5角形の家」にしようと計画を進行していった。

長谷川浩司と奥様 当時、インスタ映え、という言葉が流行しており写真を撮りたくなるようなアイキャッチとなるシンボルが欲しいと考えていた矢先、鹿児島県にある「森三」というお店にいちごのオブジェがあり、オブジェの前で中国人が写真を撮りまくっているという話を聞き「さざえ最中のオブジェを作りたい」と、予算オーバーながら作成を依頼した。

 このオブジェの効果でお客様の90%がさざえ最中を買ってくれるようになった。パートさんでも造れる最中が売れるため、菓子の製造が楽になり、経営も安定するようになる。さらにお客様がオブジェの前で写真を撮って情報を拡散していってくれる、という宣伝効果もあり、このオブジェにかかった金額は半年ほどで回収できてしまっている。
 売り場と工場の面積比率でもとても頭を悩ませた。昔、兄弟弟子に『和菓子屋はすぐの工場を広く取りたがるけど逆なんだよ。まずお店を目いっぱいにとってそのあとに工場を考えるべきだ、工場は手狭になってから増築すればいいんだ』と言われたことがあり、それを踏襲して、まずお店の面積を目いっぱい取ることとした。そのためにお店に比べ工場が手狭になり、ラックなどを最大限活用できる工場を造るよう、設計士と何度もミーティングを重ねた。

 修業時代、師匠に言われて様々な場所のオープンのお手伝いに行く機会を得た。その経験から、オープンの日は上生は売れない。だんごや赤飯などに力を入れ方がよい。セット物にお客様を誘導して回転率と客単価を上げる。

 お店の入口で人数制限をし、店内にいる人数をコントロールする等、人生初めてのオープンながら対策を練ることができた。

 おかげで、極力混乱を防ぎ回転率を上げることができた。オープンセール時は、お客様の待ち時間、ピークの時は15分程度、1組当たりの平均接客時間は87秒と回転率に力を注いだ成果は上げられたと思える。

 地方の少子化、過疎化が進み、移転はギャンブルであったが、売り上げの減少する夏季に突入した現在も売り上げの推移は予測を上回っており、業界の衰退が叫ばれている昨今、まだまだ和菓子店は地域住民、観光客などに求められているのではないかと感じている。東京や都市部で商売を営んでいる先輩方に話を伺うと「田舎の方が菓子店は元気がある!」と、言われることが多々あり、和菓子店という業種はもしかしたら地方活性の起爆剤になることができるのではないか。伝統と革新という相反する側面を兼ねた和菓子店こそがこれからの地方の未来を支えていく業種になっていくのではないかと願っている。

 千葉県菓子工業組合・南房総市・盛栄堂・長谷川浩司