各地の菓子店探訪
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肉桂玉と郡上おどり

桜間見屋(郡上市八幡町)

肉桂玉(左)と黒肉桂(右) 昭和37年11月23日に郡上八幡に生まれ、現在54歳。桜間見屋六代目を継承しております。創業130年を迎える事になりました。明治20年頃、「肉桂玉」が考案されたと聞いています。三代目までは「大間見屋」という屋号でしたが、商売が傾き、私の祖父(田口憲信)が、買いとり菓業を継いだのです。それまで「桜陽館」という旅館をしていましたので「桜間見屋」と改名したそうです。

桜間見屋 「大正の大火」で川の北部一帯が焼かれ、私の店も焼け、建て替えられ今日に至っております。昭和30年頃、父(史郎)が「黒肉桂」をつくり、郡上の名物に育っていきました。その父も、26年前私が28歳の時、亡くなりました。父は死ぬ前、病院の入退院を繰り返し、辛かった事と思います。

六代目 田口大介さん 私はといえば、小中学校の頃は、郡上八幡の夏の風物詩「橋の上から吉田川へのダイビング」で、よく飛び込んだものです。高校卒業後、高山の「音羽屋」さんへお菓子の修行に行き、十数年前亡くなられた木村弘さんに、教えていただきました。

 郡上八幡へ帰って、父が早く亡くなり、いろいろな決断を自分でしなければならず、大変でしたが、勉強になりました。

 「郡上おどり」の事を少し紹介します。

 踊りの起源は、さだかではありませんが、400年ほどの伝統を持つといわれております。

 〔古調かわさき〕天正年間(1580年頃)伊勢の参宮道者によってもたらされたという踊りで、郡上で磨き上げられ、現在国の無形文化財に指定されております。

 〔三百〕郡上の玉暦騒動は、前後5年にも及び駕籠訴や箱訴となり、百姓一揆の主だった者は、処刑・城主金森家は改易。その後を受け継いだ青山幸道は、宝暦9年丹後の宮津からの入部に際し、供の者の長途の労をねぎらい、藩内から出迎えた者にもその志をめでて、三百文ずつ与えたといわれ、里人が欣喜雀躍し地踊りを披露しました。

 郡上おどりは、毎年7月第2土曜日から始まり、9月第2土曜日に踊りおさめられます。お盆の8月13日から16日まで4日間は、徹夜で踊り明かされます。

 私の町内は「宗祇水神祭」として、8月20日頃、店の前に踊りの和が広がります。

 最近は、東海北陸自動車道の整備により、渋滞も少なくなり、駐車場も多くつくられましたので、是非遊びに来て下さい。お待ちしております。

「かわさき」

郡上のナ八幡 出て行く時は
(ア ソンレンセ)
雨も降らぬに 袖しぼる
(袖しぼるノー 袖しぼる)
ア ソンレンセ
(雨も降らぬに 袖しぼる)
(以下唄ばやし、返し言葉略)
天のナお月様 ツン丸コテ丸て
 丸て角のて そいよかろ
郡上のナ殿様 自慢のものは
 金のどひょうに 七家老
心中ナしたげな 宗門橋で
 こだら「才平」と 酒樽と
金がナ出る出る 畑佐の山で
 銀と鉛と 赤がねと
向かいナ小駄良の 牛の子見やれ
 親が黒けりゃ 子も黒い
日照りナしたとて 乙姫様の
 滝の白糸 切れはせぬ
郡上のナ馬どこ あのするすみの
 名馬出したも 気良の里
泣いてナ別れて 松原行けば
 松の露やら涙やら
忘れナまいぞえ 愛宕の桜
 縁を結んだ 花じゃもの
駒はナ売られて いななき交わす
 土用七日の 毛附け市
雪のナ降る夜は 来ないでおくれ
 かくしきれない 下駄の跡
咲いたナ桜に なぜ駒つなぐ
 駒が勇めば 花が散る
郡上のナ八幡 出て行く時は
 三度みかやす 桝形を
天のナお月様 かかあ盗まれて
 雪の間から かかァかかァと
私しゃナ郡上の 山奥育ち
 主と馬曳く 糸も引く
嫁をナおくれよ 戒仏薬師
 小駄良三里に 無い嫁を
思いナだしては くれるか様も
 わしも忘れる ひまがない
お国ナ自慢にゃ 肩身が狭い
 郡上踊りに 鮎の魚
泣いてナ別れて いつ逢いましょか
 愛しいあなたは 旅のかた
もはやな川崎ゃ やめてもよかろ
 天の川原は 西東

 岐阜県菓子工業組合理事・田口大介

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