各地の菓子店探訪,香川県菓子店

2015.08.17

銘菓木守の誕生

千利休が愛した茶碗をヒントに

赤茶碗・銘木守・惺入補造・松平公益会蔵 当社三友堂初代大内久米吉は、元高松松平家の家臣でありました。廃藩置県により職を辞し武士仲間三人で菓子店を始めました。屋号を三人の友人ということで三友堂と名前をつけ共同経営を始めましたが、三人とも菓子は全く素人で職人を雇って始めましたが、やはり共同経営は難しく一人はなれ一人はなれて久米吉のみになりましたが、屋号はそのままの三友堂としております。初代には一人娘で養子を迎える必要があり当時香川県出身で大阪で菓子職人をしていた松次を養子に迎えました。

 二代目松次は腕のいい職人であると共に趣味も多く、茶道は武者小路千家官休庵流を、お花、茶の湯の時出される懐石料理、俳句、絵、書などで菓子の掛紙はすべて手造りでした。

 木守も二代目松次が考案したものです。木守とは秋柿の実を収穫しますが一個だけ残す風習があります。来年も又豊作でありますようにとの願いを込めて自然に落ちるまで残します。その柿を木守といいます。

 茶の湯の大成者千利休は瓦師の楽長次郎に茶碗を作らせています。利休は長次郎に作らせた茶碗(赤黒)を、利休の弟子達(大名、公家、僧達)は長次郎の茶碗を利休に所望しております。ある日長次郎が作った茶碗の内一個だけ残りました。赤の茶碗で利休はこのお茶碗を非常に気に入り弟子達には渡さず自分の持ち物としております。その茶碗に利休は一個だけ残ったということと、この茶碗の色が柿の色に似ていることで木守と名前をつけました。利休はこの茶碗をこよなく愛して利休の主催する茶会にはよく使われています。当時の有力大名達、豊臣秀吉、徳川家康、加藤清正、蒲毛氏郷、高山右近達はこの木守茶碗でお茶を飲んでいます。

 この木守茶碗は武者小路千家に伝わり三代目真伯の時高松松平家に献上されています。これは武者小路千家が代々高松松平家の茶頭として仕えたことと、当時京都では火災が多かったので将来の安全を願ってのことでした。武者小路千家の代替りの時、逆に松平家から拝借することになり、その道中お蔵番に道具係長持に葵の紋の入った提灯をかかげて茶碗はかごに乗せて京都に持ち帰り、家元の襲名の茶会に床の間に飾って茶会をしておりました。

 その木守茶碗は大正十二年当時、高松松平家の東京別邸にありまして関東大震災にあい一瞬のうちに棚から落ち、その上に金庫が倒れ火に包まれて茶碗としては完全に消滅してしましました。武者小路千家十二代愈好斎宗匠が、楽家に頼んで一番大きいかけらを中に入れて楽家十二代弘入と十三代惺入の親子で復元してもらい、高松松平家に献上しております。それをヒントにして二代目松次が昭和初期、松平家・武者小路千家のおゆるしをえて二代目松次が菓子木守を作りました。ふやきせんべいの間に柿羊羹をはさみ、上に木守茶碗の高台のうずまきを焼印で押して、表裏に和三盆をハケで塗ったものです。

 香川県菓子工業組合専務理事・大内泰雄